たびたび話に出るのに実は読んだことがなかったマーク・トウェインの小説『トム・ソーヤーの冒険』。
不良や海賊に憧れるとか、好きな女の子の前でなんとか目立とうとするとか、子供ながらの価値観や知恵と工夫がみずみずしく表現されている。
やさぐれたおっさんも思わず「自分も昔はこうだったよな」とにんまりすること間違いなしだ。
100年前の『スタンド・バイ・ミー』
なんとなく十五少年漂流記やロビンソン・クルーソーのような無人島でサバイバルする話かと思っていたが、それは中盤の一エピソードに過ぎなかった。実際には19世紀中頃、アメリカの片田舎で繰り広げられる少年トム・ソーヤーとその悪友たちの暮らしぶりという内容。
いくつかの子供らしい冒険譚が続いて最後はまた元の鞘に収まる、というドラえもん的なストーリーだが、米国文学らしい社会風刺や風俗描写に富んだリアリズム小説になっている。ちょっと死人が多めに出てくる、100年前が舞台の『スタンド・バイ・ミー』という感じだ。
有名な「塀のペンキ塗り」エピソード
冒頭でトムが伯母に言いつけられた塀のペンキ塗りを、うまくいいくるめて他の少年たちにやらせる、という逸話が有名。つまらない仕事でも「ペンキ塗りを体験できるチャンスは人生に何度もない」と売り込むことで、逆にお金を払ってでも参加したくなるという話だ。
「相手が大人であれ子供であれ、何かを欲しがらせるには、それを手に入れるのを困難にすれば事足りる…仕事とは人が強いられるものであり、遊びとは強いられないものだ」
『トム・ソーヤーの冒険』 マーク・トウェイン 柴田元幸訳
なにかビジネスにも応用できそうな、人間心理に根ざした教訓がある。このテクニックを駆使してトムは日曜学校で賞を得るまで成功するが、結局実力が伴わなくて赤っ恥をかくというオチもつく。
一応、無人島で暮らす話も出てくる
作中に出てくる無人島というのは、ミシシッピー川の中にある長辺5キロくらいの中州で、トムほか2名が数日家出して暮らすということになっている。魚はふんだんに取れて外敵もおらず、特にロビンソンのような原始的サバイバル術の話は出てこない。親や恋人を心配させようと悲壮な覚悟で出発するが、結局ホームシックになって戻ってくるというのが10歳の子供らしく、誰しも身に覚えがあるようなエピソードだ。
いたずらと称して自分たちの葬式の最中に姿をあらわしドッキリ!という展開なのだが、ここで一杯食わされた村人から袋だたきにあわずに、歓喜をもって迎えられるというのが牧歌的な時代を想像させる。一方でトムは、家庭内では伯母から(濡れ衣も含めて)ひたすらぶたれ、学校でも教師に鞭打ちされまくるという虐待少年で、前時代的な暴力シーンがふんだんに出てくる。
ヅラの教師にまつわるイタズラ話
カツラの教師というのはいつの時代も鉄板ネタだ。自分も昔、教室に差し込む夕日を手鏡で反射させて、教壇でうつむいている先生のはげ頭に反射させようというイタズラを試みたことがある。光線が頭皮に近づくたび、クラス全体にこらえきれない笑いが起こったが、ばれたらどんなことになっていたかと考えると恐ろしい。思い起こせば、教師にビンタされたり回し蹴りされたり体罰が日常にある、のどかな少年時代だった。
本作でもヅラのドビンズ先生はいじられまくっている。発表会で天井から猫を紐で吊してカツラをつかんで引き上げ、しかも寝ている間に頭皮が金色に塗ってあるという手の込みようだ。さすが、いたずらの凝り方はトムにはかなわない。
邪魔者は都合よく排除される小説
後半から墓場の殺人事件を目撃して、復讐に怯えながら暮らすという本筋が始まる。途中で「ガールフレンドの身代わりになって鞭打ちを受ける」という、意外と男前な性格をほのめかせていたトム。
伏線通り、無実の罪を着せられたマフ・ポッターの裁判で自ら証言して真犯人を告げるのだが、ここでインジャン・ジョーが馬脚を現し大衆の面前で逃げ出してしまう(犯人確定)というのは、やや都合がよすぎる。嘘つき少年の戯れ言だとかわして、あとでみっちり口止めしておくのが大人の作法だろう。
その後ジョーは、財宝を手にしながら偶然洞窟に閉じ込められて餓死するという間抜けぶりが描かれるが、私怨の復讐など放っておいてとっととテキサスに逃げればよかったのだ。トムにとってはうますぎる結末だが、因果応報という教訓も含まれている。
6%の資産運用で暮らすトムたち
幽霊屋敷で偶然「マレルの一団」の金貨を発見して、これが主人公と殺人犯のどちらに渡るのか、というのが終盤のサスペンスになる。何度か見つかれば命を落とすような目にあいながら、しぶとく財宝の行く末を追跡するトムとハック。結局悪党はみな死んで、トムが洞窟で迷ったついでに隠し場所を発見する。
ラストはまあ警察にでも引き渡して慈善事業かなにかに使われるのだろうと踏んでいたが、トムとハックに金貨の所有権が認められ、山分けして富豪になったという展開は予想外だった。まさにアメリカンドリーム。子供でも元は盗品でも、苦労して手にいれた報酬は当然本人が受けるべきという個人主義の倫理観が体現されている。トムたちが被害者の遺族や村の貧しい人々に財宝を配ってめでたしめでたし、とはならなかった(ロビンフッドの逸話は出てくるのだが)。
しかも金額換算して1億以上はあろうという大金を、まわりの未亡人や判事が管理してくれて「6%の利息で貸付けに出し…桁外れな額の定期収入が生じた」とやけに現実的な運用方法まで説明されているのだ。『ロビンソン・クルーソー』でも、漂流前に投資していた南米の農場が繁盛して…というハッピーエンドになっていた。欧米の冒険小説では、主人公が「成功した」という結末が「資本家になって利息で暮らせた」と具体的に語られるところが興味深い。
陰の主人公ハックルベリー・フィン
『トム・ソーヤー』には最後にもう一つサプライズが用意されている。片割れのハックルベリー・フィンが上級階級の堅苦しい生活に飽き飽きして、元の尾大樽で寝る貧乏生活に戻るという結末だ。
「食い物は簡単に手に入りすぎる…あれじゃ食う気も失せちまう」「手に入れるのに苦労しないものなんて持つ気しねえ」と深遠な言葉を吐く浮浪児ハック。実は悪ぶっているだけの優良児トムに比べて、正真正銘のヒッピー少年ハックルベリーこそが陰の主役かもしれない。そして二人して「金持ちになっても盗賊になる夢を諦めない」という謎な価値観に合意して終わるという愉快な結末だった。
やはりハックの方が見込みがあったのか、続編では主人公に据えられている。
ハックルベリーでMOTHERを思い出した
ハックの登場シーンでトムがダニを譲り受けるのだが、ここでファミコン版MOTHERの「ノミとシラミ」を思い出した。いかにも浮浪者風のキャラと交換してもらえて、ボス戦やR-7038の裏技発動にも使えるサガのチェーンソー的必殺アイテムだ。MOTHERのアメリカ風の舞台設定は、ファンタジー中心のRPGの中で新鮮だったのだが、きっとトム・ソーヤーをベースにしているに違いない。
その後、多くの小説や映画で繰り返し参照されているためか、妙に既視感があって懐かしい『トム・ソーヤーの冒険』。序章で作者も述べているように、児童文学にとどまらない大人向けのウィットに富んだエピソードが満載だ。
新潮文庫の翻訳は読みやすかったので、まだ読んでいなかった人にはぜひ一読をおすすめしたい。