E・F・シューマッハーの”Small is beautiful”(1973年出版)を、講談社学術文庫の翻訳で読んだ。
一般的には、現代工業文明批判やオイルショックの予言として知られている有名な本。50年後の現在、シューマッハーが指摘した先進国の過剰なエネルギー消費という『不都合な真実』は、発展途上国に転嫁された感がある。
むしろグローバリゼーションが進んで、本書に出てくる「富んだ国」「貧しい国」という区別が曖昧になってきた。化石燃料の消費と温暖化、原発の導入など、経済発展にともなう副作用は、もはや先進国だけの課題ではない。
スモールというより中道志向
タイトルからして「自然に帰れ」的な内容かと思ったが、よく読むともう少し発展的な提案が含まれていた。「規模の経済」がもたらす様々な弊害を危惧していることは変わりないが、「小さければよい」というだけの話でもない。
特に今読んでも新鮮なのは、第一部第三章「仏教経済学」と第二部第五章「人間の顔をもった技術」だ。これらの用語、および「中間技術」「適正技術」「民主的技術」というキーワードから連想される通り、著者の目指している持続可能な経済システムとは、中道的なものである。
ものごとを建設的に成しとげるためには、つねにある種のバランスを取り戻すことが何よりも必要である。今日、人びとはほとんど例外なく、巨大信仰という病いにかかっている。したがって、必要に応じて、小さいことのすばらしさを強調しなければならない。(もしも、ことの性質や目的とは無関係に、小さいことが盲目的に尊ばれるようなことになったら、この逆のことをしなければならない)
『スモール イズ ビューティフル』
問題は「近代的成長」と「伝統的停滞」のどちらを選ぶかではなく、その中道(正しい生活)とはっきり述べている。実際は”Small is beautiful”ではなく、”Middle way is better”とでも呼んだ方がいい気がする。
シューマッハーが提唱する「中間/適正技術」というのも、複雑な資本集約的技術の対概念ではない。正確には土着技術とその間(一ポンド技術と一千ポンド技術の中間=百ポンド技術)を意味している。中間レベルの技術は「設備投資に対する費用対効果が高い」というのが、その理由だ。
経済学の限界
第一部第三章「経済学の役割」において、学問としての経済学の限界とでも言うべきものが説明される。
- 経済学が得意とする費用・便益分析では測れないものがある
- 経済学は質的差異を扱うことができない
- 経済的な判断は短期的になりがちである
たとえば「国民総生産が5%伸びたら良いことなのか、悪いことなのか」という質問について、計量経済学者は答えることができない。世の中には「病的な成長」や「不健全な成長」というのもある。そもそも地球環境や天然資源は有限なので、無限に成長することは不可能というのが本書の前提だ。
経済学では経済成長に最高の価値が置かれるが、「このくらいで十分」という判断はできない。言うなれば”More is More”、人の欲望に際限はないので、強迫神経症的に利益を追求することが奨励されてしまう。
シューマッハーの主張をひとことでまとめると「焼き畑農業は続かない」ということだ。それは皆うすうす気づいていることだが、人は短期の利益を重視するので目先のビジネスや消費活動をやめることができない。「経済学がすべてダメだ」と言っているのではなく、目指すべきは「より長期視点の功利主義」といったかたちの明快な議論だ。
小規模な仕事場・設備投資
仏教やガンジーが引用されるので、何となく経済学の傍流、カウンターカルチャーのように見えてしまう点は否めない。しかし中間技術の提案内容はきわめて現実的・具体的で、今まさに地方移転のかたちで議論されているテーマだ。
- 仕事場は人びとが現に住んでいるところに作る(無駄に通勤しない・させない)
- 生産設備への投資を抑える(過剰な資本蓄積を防ぎ、仕事場を増やす=失業者を減らす)
- おもに地場の材料を使い、製品は地場の消費に向ける(地産地消、輸送コストの削減)
具体的には「一仕事場当たりの平均設備投資額は、能力とやる気のある労働者の年収を上限とするのが妥当」と言われている。そして小規模事業の数を増やし、地域に分散させるメリットは、単純に「環境負荷が少ない」ということでもある。
フリーランスや地域おこしが奨励される背景には、シューマッハーの提案した分散型の中間技術という理想形があるように思う。ある程度の年齢になると、美食や消費生活にも飽きてくる(限界効用)。もし生活レベルや交友関係を変えずに済むのなら、都心を離れて通勤せずに暮らしたいと思う人も多いのではなかろうか。
中間・適正技術やガンジーの「大量生産ではなく、大衆による生産」というスローガンは、第三世界の貧困層を救う目的で提唱された。しかし、今の日本や先進国でも有効な、幸せに働き暮らすための知恵という印象を受ける。
仏教経済学の労働観
シューマッハーが仏教を引用して語る労働観とは、是非という価値観を超越した「行」のようなものである。経済学の考え方を労働者側の立場に当てはめた以下の説明は、誰もが共感できる部分があるだろう。この単純明快さこそが費用・便益分析の魅力ともいえる。
労働者の観点からいえば、労働は「非効用」である。働くということは、余暇と楽しみを犠牲にすることであり、この犠牲を償うのが賃金ということになる。
『スモール イズ ビューティフル』
いわゆる「必要悪」として仕事や労働をとらえる考え方は、表向きとして現在主流の考え方だ。一方で、マックス・ヴェーバーや平川克実が指摘するように、現代人は非合理的なエートスに突き動かされて無制限に富を蓄積しようとする傾向がある。
しかし仏教的な考え方によると、労働とはそもそも貨幣と等価交換できるものではない。仏教における「仕事」の役割とは、以下の3つにまとめられる。
- 人間にその能力を発揮・向上させる場を与えること
- 他人と協業することを通じて、自己中心的な態度を捨てさせること
- まっとうな生活に必要な財とサービスを造り出すこと
老後に貯蓄もあり年金暮らしで経済的自由は達成できたが、「やりがい」や「生きがい」という話が出てくるのは、まさにこのためではないか。仕事がもたらすのは金銭的な対価だけでない。
仕事と余暇とは相補って生という一つの過程を作っているのであって、二つを切り離してしまうと、仕事の喜びも余暇の楽しみも失われてしまう。
『スモール イズ ビューティフル』
「仕事」と「余暇」を経済学のように単純な二項対立でとらえないところが、まさに仏教的な考え方といえる。
最小限の消費で最大限の幸福
著者が仏教を評価している背景には、労働・仕事に対する独特な考え方だけでなく、そのミニマリスト的な生活様式も含まれている。
シューマッハーがビルマで目撃した仏教徒の生活や服装は、「最小限の消費で最大限の幸福」というコンセプトに見えたらしい。布きれを無造作にまとう方が、西洋風に仕立てた服より簡素で丈夫、合理的とまで言っている。
著者が理想とする「適正規模の消費」を続けるには、そもそも人が持つ貪欲・嫉妬心という心理にブレーキをかける必要がある。経済成長のエンジンともいえるモチベーションを制約するのだから、これまでの議論からして経済学にその役割は期待できない。そこで持ち出されたのが、仏教という概念なのだろう。
その後、教育問題に関する章では「形而上学の再構築」が必要とまで言っている。このあたりから少々オカルトめいてくるのが、シューマッハーの特徴であり、誤解されがちな点でもある。そこを抜きにすれば、持続可能なビジネスや地域振興を考える上で、今でもヒントになりそうな本だった。