ジョン・スチュアート・ミルが1861年に書いた『功利主義論(Utilitarianism)』を読んでみた。
この本には「満足した豚より不満足な人間」という広く知られた名ゼリフが出てくる。感想をまとめてみたい。
満足してはダメですか?
満足したらそこで試合終了だよ
満足した豚より不満足なソクラテス
『功利主義論』の該当個所はこちら。
満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスである方がよい。
(原文)
it is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied.ミル 『功利主義論』 伊原吉之助 訳
こんにちでは、
- 満足した豚<不満足な人間
- 満足した馬鹿<不満足なソクラテス
の2つをまとめて「満足した豚より不満足なソクラテス」という格言が普及している。
単に長いから縮めただけともいえるし、豚とソクラテスを並べた方が、よりビビッドに対比をイメージできる効果もある。
哲学マンガの『ここは今から倫理です。』には「悩まぬ豚より悩めるソクラテスであれ」と引用されていた。ほかにも「太った豚より痩せたソクラテス」など、いくつかのバリエーションが存在する。
しかしミルの原典では「満足した馬鹿」と「不満足な人間」の優劣については説明されていない。
つまり豚とソクラテスを直接比較するのは間違っている。さらに言えば豚と人間の比較についても厳密には成り立たない。
ソクラテスがすぐれている理由
上記の引用部分に続く説明も興味深い。
そして、もしその馬鹿なり豚なりがこれとちがった意見をもっているとしても、それは彼らがこの問題について自分たちの側しか知らないからにすぎない。この比較の相手方は、両方の側を知っている。
ミル 『功利主義論』 伊原吉之助 訳
人間やソクラテスがすぐれている根拠をまとめると以下のとおり。
- 豚(pig)と馬鹿(fool)は自分のことしか知らない
- 人間(human)とソクラテスは自分のことも相手のことも知っている
要するに相手の立場や考え方まで理解したメタな視点から見ることができるから、無条件に「よい」とされている。交渉事でもゲームでも「状況を大局的に見て判断できる方が有利」という意味では、それらしく聞こえる。
しかし人間は本当に豚のすべてを知っているのだろうか。そしてソクラテスは馬鹿の考えることを、くまなく熟知しているのだろうか。
「無知の知」というソクラテス自身の言葉を借りれば、「自分のことしか知らない」とされる豚の方が、「何でも知っている」と自負する人間よりマシなのではないだろうか。
ローリング・ハム・アタック
豚の気持ちはわからない
厳密にいうと豚が人になれないのと同様、人間も豚の気持ちを知っているわけではない。家畜として殺される立場、また汚らしい豚舎のイメージから、豚を下劣な生き物とみなしているにすぎない。
脳の容積は人間の方が大きいが、豚の方がすぐれている感覚器官もある。
たとえば豚の嗅覚は人より何倍も発達している。昔は犬の代わりに豚が麻薬探知に使われたほどだ。鋭い嗅覚をそなえた豚がメシを味わう快楽とは、人間が想像するよりはるかに甘美な快楽なのかもしれない。
「両方の側を知っている」というからには、せめて豚と肩を並べて残飯をむさぼるくらい参与観察すべきだろう。
ソクラテスは豚のエサを食べたことがあるのだろうか。
フォゲット・ミール
豚の満足度は測れない
そもそも豚が満足しているかどうか、さらに言えば「満足」という概念を持っているかどうかさえ定かではない。
満足した豚すなわち「自分が満足しているかどうか考えられる豚」とは、「嘘つきのクレタ人」と同じパラドックスに聞こえる。
なぜなら豚が人間らしく思考する時点で豚とは言えないし、反対に豚そのものであれば、満足かどうかについて考えることもないだろうから。
豚はプラトンやミルの著作を読むはずがない。そして人間の尺度を豚に当てはめて満足度を類推するのは危うい。
豚の満足は人の基準では測れない。
スーパー・ロース・イリュージョン
豚の社会性はあなどれない
『功利主義論』第5章では、人間と動物の違いを「共感力の違い」で説明している個所がある。
知性にすぐれた人間は動物と異なり、自分や自分の子孫だけでなく全人類、さらには生きとし生けるものすべてに共感することができるとされている。
これも今となっては論拠が怪しい。
豚ほどの高等動物であれば、それなりに群れをつくって暮らす。30頭くらいの仲間は認識するといわれ、20種類もの鳴き声を使い分けてコミュニケーションをとっている。
共感力の大小というは、あくまで人間が仮定した程度問題にすぎない。
ミルは功利主義に快楽の質という観点を導入したが、豚の満足に関する質的側面については憶測の域を出ない。
満足と幸福の違い
『功利主義論』には豚・ソクラテス比較の前に、「満足と幸福は違う」という議論がある。
エピクロス派のとなえた功利主義を当時の俗っぽい批判から擁護するため、「精神的な快楽は肉体的な快楽より質的に望ましい」とミルは主張している。
そこから価値観の話に移り、感受能力が低い人(豚や愚者)は俗な快楽で「満足」するが、知的な人間(ソクラテス)は目標が高いために、不完全な「幸福」しか味わえないとされる。
感受能力の低い者は、それを十分満足させる機会にもっとも恵まれているが、豊かな天分をもつ者は、いつも、自分の求めうる幸福が、この世では不完全なものでしかないと感じるであろうことはいうまでもない。
ミル 『功利主義論』 伊原吉之助 訳
つまり豚とソクラテスでは、前提として目指しているものが違う。
ソクラテスは「飯が足りない」から「不満」なのではなく、「世界平和を実現できない」など抽象的な悩みを抱えているからこそ「不幸」なのだ。
ここまできて、ようやくミルが言いたかったことがわかってくる。
「満足と幸福は違う」という論点を例の格言に反映させると、本来は「満足した豚より不幸せなソクラテス」とでも表現した方が適していると思う。
キャッチコピーの妙味
しかし英語の原文では、a pig satisfied(満足した豚)に対して、Socrates dissatisfied(不満足なソクラテス)となっている。
これはなぜか。
「不満足な人間」からは、ハングリー精神のような前向きな印象を受ける。しかし「不幸な人間」と言うと、望ましくない境遇に甘んじているだけの堕落したイメージを思い浮かべてしまう。
Unhappy Socrates(不幸なソクラテス)では、なんとも惨めな感じになってしまうのは否めない。
そこでミルはあえて「不満足」という形容詞を選んだのではないだろうか。そして「満足-不満足」の組み合わせでなければ、歴史に残る格言にはならなかったと思う。
英語の原文を読んでも、「better to be … satisfied」が連続する2つの文は語呂がよい。表現を繰り返し、かつ対義語のギャップを取り入れることで、記憶に残りやすいキャッチコピーに仕上がっている。
その意味するところは「武士は食わねど高楊枝」。
武士道ならぬ騎士道を重んじるイギリスにおいては、知識階級の自負心をおおいに刺激したことだろう。
豚とソクラテスの意味するもの
ミルが豚を取り上げているのは単なるレトリックにすぎない。
人間と比較する前の個所で、「エピクロス派の人たちが侮蔑的になぞらえた動物であった」と豚に言及している。文脈からすると、快楽の質的比較を行う際に都合のいい下等生物として、なじみのある家畜が選ばれただけのこと。
ソクラテスについても同様。
『功利主義論』の冒頭でプラトンの『プロタゴラス』が引用され、ソクラテスがソフィストに対抗して功利主義論を提案した経緯が語られている。
『功利主義論』において豚は低級な快楽で安易に満足してしまう人たち、ソクラテスは高尚な理想をかかげてなかなか満足できないでいる人たちをそれぞれ象徴している。
ミルの循環論法
ミルの『功利主義論』は、当時のイギリスで批判にさらされていたベンサムの「最大幸福の原理」を擁護する論調ではじまる。そして快楽の量だけでなく「質」という基準を持ち込んだことが、ミルの功績とみなされている。
しかしそれは同時に功利計算に例外を設けることにつながり、単純明快なコンセプトを損なってしまったようにも感じられる。ベンサムの批判者にも受け入れられるようにと、功利主義に情緒を持ち込んだのが仇になってしまった。
ミルが古典をさかんに引用するのは、動物的快楽をイメージさせてしまう「功利」という概念に、「徳(アレテー)」というニュアンスを込めたかったからだろう。
そして「最高善は証明できない」という前提から論理でなく感情に訴え、むりやり自説を押し通しているように見受けられる。この論法はベンサムの『道徳および立法の諸原理序説』 から引き継がれている。
究極目的にかかわる問題は、直接証明できるものではない。善であることを証明するには、証明抜きで善と認められるものの手段であることを示すほかない。
ミル 『功利主義論』 伊原吉之助 訳
『世界の名著』編者の関嘉彦は序文のなかで、快楽の質的定義を循環論法と指摘している。
あるものが望ましいことの証明は人々が望んでいることだといって、望まれるものと望ましいものを同一視している。
関嘉彦 「ベンサムとミルの社会思想」 『世界の名著49』より
関嘉彦が言及しているのは、たとえば『功利主義論』における以下のような部分。
二つの快楽のうち、両方を経験した人が全部またはほぼ全部、道徳的義務感と関係なく決然と選ぶほうが、より望ましい快楽である。
ミル 『功利主義論』 伊原吉之助 訳
確かにミルのような知識人ばかり選んでインタビューしてみたら、多数決で高尚な快楽が選ばれるだろう。しかし当時の労働者階級にアンケートを取ったとしたら、結果は変わってくるはずだ。
身体的な快楽についてはおおむね意見が一致するが、精神的な快楽については人それぞれ。
世の中にはシェイクスピアを読むよりも、シンプソンズを見ることを好む人たちがいる。そしてミルにとっては残念なことに、そちらの方が圧倒的に多数派だ。
『自由論』との比較
ミルは1843年に『論理学体系』というテキストも出している。当時のイギリスにおいては論理学の権威だったと想像される。
ベンサムを信奉する父親に英才教育をほどこされ、早熟の天才だったJ・S・ミルが、こんな怪しげな論理展開で『功利主義論』を書くわけがない。
おそらくギリシャ哲学など引用して読者の自尊心(感情)にうったえた方が、理屈で説得するより効率的だと、功利主義的に考えたからではなかろうか。
2年前に書かれた『自由論』と照らし合わせると、著者が伝えたかったメッセージが見えてくる。
『自由論』において批判されているのは、大衆や権威がマイノリティーとの対話を閉ざしてしまうことだ。それによって社会構造が硬直化する弊害を避けるために、「言論の自由」という、よく知られたスローガンが提唱されている。
そして多数派が陥りやすい罠が、集団的権威に対する絶対的信頼、すなわち「無誤謬性の仮定」である。人の意見は他人と討論することによって、誤りが直されたり改善されたりする。
ミルにとってもっとも嘆かわしいのは、自分の意見が絶対的に正しいと信じることによって、自己批判の可能性を閉ざしてしまうことだ。
問題の自分自身の側しか知らない人は、それについてはほとんど何も知ってはいないのである。
(…中略…)
彼にとって合理的な態度は、判断の中止であろう。ミル 『自由論』 早坂忠 訳
この部分は『功利主義論』に出てくる先述の豚・愚者批判と対応している。
つまりミルが「満足した豚」と皮肉を込めて呼ぶものの正体は「思考停止した人」なのだ。
満足した豚から考える豚へ
人間といえども、不満足な状態に満足して考えることをやめてしまっては豚と同じである。
プラトンの描くソクラテスのように、他者と対話することで議論を発展させていくオープンな姿勢こそがミルの理想だったのではないか。
「満足した豚より不満足なソクラテス」という名言は、「考えないソクラテスより考える豚」と言い換えても意味が通じる。
すると「満足」という言葉はそれ自体悪いものではなく、多数派の意見に迎合して考えることをやめてしまった状態の比喩にすぎない。
表面的には満足しているように見えつつも、「自分は本当に満足しているのか」「より高度な満足が存在するのではないか」と考える豚は、ソクラテスに劣らないのかもしれない。
I can’t get no satisfaction
満足できないこともない
やはり豚語は何を言ってるか理解できぬな
『功利主義論』の翻訳入手方法
ミルの著作といえば1859年の『自由論(On Liberty)』が有名。
こちらは岩波文庫や光文社文庫、河出文庫、日経BPなど翻訳が多く存在し、最近はマンガ版まで出ている。
しかし『功利主義論』の方は現在、京都大学学術出版会の近代社会思想コレクションという高価な単行本でしか手に入らない。
少々古いものでよければ、中央公論社の『世界の名著』シリーズ第38巻『ベンサム、J・S・ミル』にも『功利主義論』が収められている。
『世界の名著』はすでに絶版だが、少し大きな図書館に行けばたいてい置いてある。
運良くペーパーバック新装版の古本を手に入れることができた。
『世界の名著 49』にはミルの『自由論』『功利主義論』と『代議制統治論』、さらにベンサムの代表作『道徳および立法の諸原理序説』も収録されている。
功利主義の原典にあたるには、これでほぼ間に合うというくらい、よくまとまっている一冊だ。