『年収は住むところで決まる』を読んでシリコンバレーに移住する愚

2014年に邦訳が発売されてから、何となく気になっていた本。タイトルでほぼネタバレしており、読むのは後回しになってしまった。

著者はアメリカのカリフォルニア大学バークレー校で教える、イタリア人のエンリコ・モレッティ。キャッチーなタイトルだが、気鋭の経済学者がまとめた労働・都市経済学の骨太な報告書といえる。

内容は予想通りだったが、もうひとつ見落とされがちな論点が含まれていた。

統計的にはシリコンバレーのようなイノベーション産業の集積地に住む方が、給与が上がると期待できる。しかし問題は「代わりに生活コスト(特に住宅関連)が増えるため、生活水準はあまり変わらない」という事実だ。

平均の罠

「住むところで年収が決まるなら、今すぐ東京やシリコンバレーに引っ越した方がいいのか?」と早とちりしない方がよい。

ここで主張されているのは、あくまで「一般的に大卒の方が高卒より平均年収が高い」というような事実に過ぎない。冷静に考えて、値上がりした家賃の分、給料が増えなければ、赤字になるのは目に見えている。

この本で扱われる年収の分布は、異常な高所得者が平均値を釣り上げているように思う。中央値という議論も出てこないので、生存バイアスや平均値の罠という現象に気をつけた方がいい。

逆説1:フラット化しない世界

大学の研究者やIT業界の人には周知の事実かもしれないが、著者が指摘するユニークな逆説の一つは「フラット化しない世界」。リモートワークが可能なはずのイノベーション産業で、従来の予想に反して、かえってFace-to-Faceな労働集約環境が好まれるという。

シリコンバレーのベンチャーキャピタルが投資先の会社に課す「20分ルール(オフィスから車で20分以内の距離にいること)」はその最たるものだ。同業者同士の非公式な集まりで「知識の伝播」が促進され、創造性や生産性が向上すると経験則による。

確かに、技術的な情報だけでなく、働き口の紹介や事業のアイデアみたいなものも、人づてに伝わってくることが多い。その面では、地方や郊外でSOHOするのはイノベーション業界の人にとってデメリットになってしまう。

年収とか家賃みたいなものは抜きにしても、「都心でハイレベルなセンスがいい人たちと一緒に仕事した方が楽しそう」と感じるのは事実だ。特に研究職やデザイン業界など、人的資本が重要な職種だとその傾向が強い。顧客側としても、費用は高くても東京の会社に依頼した方がクオリティーの高い成果を得られそうに感じる。

逆説2:移民による雇用創出

本書におけるもうひとつの逆説は、「高技能の移民を受け入れた方が、都市の雇用も生産性も増える」という事実だ。短期的には同業種の人たちが職を奪われるかもしれないが、長期的には地域に還元される乗数効果の方が高く、好循環が働く可能性が指摘されている。

このあたりは地域振興を担当するお役所の人に向けて書かれたメッセージ。しかし具体的な方策の提案は乏しく、歴史的にイノベーションハブが生じたのは単なる偶然という結論になってしまっている。

実は、アメリカの主要なイノベーション産業の集積地の中で、当局によるビッグプッシュ戦略によって生まれたものはほとんど見当たらない。シリコンバレーは、地元の政治家が計画して築いたわけではない。

『年収は「住むところ」で決まる』

そして企業誘致に莫大な補助金をつけるよりは(フリーモントのソリンドラ破綻例)、「基礎研究に予算を割くべき」という穏やかな提案にとどまっている。ここは大学教授としてのポジショントークが含まれているように感じた。

重要なのは年収より貯蓄額

本書が扱っているテーマは人的資本と都市間の格差拡大、「労働市場の空洞化と中間層の流出」だ。そして「ハイテク企業に勤める高所得者」というモデルが、どうも年収数千万レベルの富裕層に平均値を引っ張られているように見える。

大学のスター研究者やGoogle、Appleのエリート従業員なら、間違いなく高集積な都市に住む方が昇給や生産性アップを期待できる。一方で、同じイノベーション産業で働く「並みレベル」のエンジニアやプログラマー(中間層)は、高い生活コストを払って大都市に留まり続けるべきなのか、岐路に立たされている。

国家レベルのマクロな成長戦略を抜きにして、個人レベルの都合でいえば地方に移住した方が幸せかもしれない。年収は減るが、生活コストが激減して家計はプラスに転じる可能性がある。

長期的に重要なのは「年収」そのものより、可処分所得から消費支出を引いた部分だ。会社経営でいうと、いくら売上が高くても経常利益・税引き後利益が残らなければ自転車操業にならざるをえない。

シリコンバレーに移住して年収が2倍になったとしても、家賃や生活費が2倍になったらそれほどうれしくない。引っ越しや転職の費用、精神的な負担を考えると、地域間の格差は認めつつも地方で暮らす方が有利かもしれない。

都市間格差の裁定取引

本書を読むと、確かにサンフランシスコやスタンフォードに比べ、フリントやガズデンといった(名前も知らない)地方都市の格差は拡大しているように見える。年収、学歴、寿命、離婚の割合など、あらゆる面にその兆候が出ている。

個人的に気になったのは、「それほど違いがあるなら、なぜ繁栄している都市に移住者が殺到しないのか」ということだ。「アメリカ人は昔から移住に積極的」と紹介されているので、なおさら不思議に思った。

上述の引っ越しコストや、生活費の増大というネガティブな面もあるだろう。しかしこのまま地域格差が増えるなら、いくら人口の流動性が低くてもアービトラージ(裁定取引)が働きそうなものである。

生活コストという観点

おそらくその原因は、平均年収の格差に反して生活レベルはあまり変わらないからだろう。単純に考えて、ハイテク都市に移住することで増える支出をペイするほど雇用条件が魅力的でなければ、現状維持したいバイアスが働くのが人間というものだ。

ジョンズタウンのような都市は、名目賃金こそ低いが、住宅コストも安いので、見かけよりも実質的な購買力は大きい。

…ジョンズタウンの住民が大挙してニューヨークやボストンに出ていかない理由の一端はここにある。アメリカの各都市の平均所得を生活コスト調整済みの数字に直すと、都市間の格差は調整前より約25%縮小する。

『年収は「住むところ」で決まる』

これは、地方移住や地域振興を考える立場にある人にとっては、朗報といえるかもしれない。「生活費が安く済む」という観点で、イノベーション集積都市とは別の競争力を築ける希望が持てる。

東京一極集中は是か非か

何年か前に、シリコンバレーと呼ばれるサンノゼやサンタクララのあたりに行ってみたことがある。気候が温暖で土地も広く、日本の首都圏のように息苦しい感じはまったくしなかった。シリコンバレーへの集積が続いているのは、地理的なキャパの広さも影響しているように思う。

アメリカに比べると、日本の各都市は家賃以外の生活コストや文化レベルがあまり変わらない。人口の流動性も高く、著者の指摘する「正の外部性」が働き続けて、東京への一極集中がますます進むだろう。ことイノベーション産業に関しては、このまま東京に人口を集中させた方が国家・企業としては国際競争力を保てる。

一方で、人口密度が高すぎて都心に通勤するのは耐え難いレベルに達してきていることもまた事実である。まわりのクリエイティブ・クラスと呼べそうな人たちの間では、地方に移住したり二拠点で生活するのがトレンドになってきている。

高収入・高支出の高度集積都市で暮らすか、低収入・低支出の地方都市で暮らすか…これが経済学的に等価だとしたら、あとは好みの問題だろう。日本全体の人口減少もあいまって、行き過ぎた一極集中はいずれ緩和される。その後は、東京の急激な高齢化が問題になるはずだ。

集積にも限度がある

本書によると「イノベーションハブになる都市の発生は偶然(製造業のように港や天然資源によらない)」とのことだ。シアトルが栄えたのは、単にビル・ゲイツが出身地に本社を移したという理由にすぎない。

それなら日本でもこれから東京以外に(徳島県の神山町とか)シリコンバレーのようなものが出現してもおかしくない。土地が広く人口も増え続けているアメリカと、その逆の状況にある日本では、少し事情が異なるように感じた。