子どものころ、国語の授業で習った「かくてもあられけるよ」という古文が、妙に記憶に残っていました。
大人になってから調べてみると、出典元は吉田兼好の『徒然草』11段。「神無月のころ…」で始まる短い章とわかりました。
徒然草11段の意味するもの
来栖野(現在の京都市山科区)の山里を訪れた兼好が、苔むした細道の先に、さびれた草庵を見つけます。
出家した兼好が「こんなふうにしてでも生活できるものである」と共感して、しみじみした気持ちになるという内容です。コメントの対象は兼好自身ではなく、どこかで見つけた他人の家です。
しかしこの話にはオチがあります。
その家の庭には大きなミカンの木があって、実を取られないように持ち主が厳重に囲ってあるのを発見します。
用心深いというか浅ましさのようなものまで感じてしまい、兼好の評価は「こんな木がなければよかったのになあ」と180度変わります。
矛盾と諧謔
徒然草は日本三大随筆のひとつ。14世紀に書かれたエッセイの原点ともいわれます。
本の中ではこういう風に、兼好が見聞きした話をいったん持ち上げて落とすという展開がたくさん出てきます。
最初は「いい話だな」と思って読んでいると、実は兼好自身の評価は真逆。そのギャップで相手をおとしめ、強烈な皮肉で締めくくるといった具合です。
徒然草という本自体も「長い年月をかけて書き溜められた」という説があり、最初と最後の方で主張が変わっていたりします。
矛盾と諧謔に満ちたつかみどころのない書物なので、人によって解釈もさまざま。そうした捉えどころのなさが、長く読まれ続けてきた理由ではないかと思います。
虚栄心と劣等感
吉田兼好は徒然草19段で「つまらぬ遊びごとで破き捨てるつもりのものだから、人が見るはずもあるまい」と書いています。
エッセイストの酒井順子はこの個所について、「本当に『人が見るはずもない文』だと思っているのなら、どうせ誰も読まないのだから、わざわざ言い訳を書かなくても」とコメントしています。
その背景には兼好が生きた14世紀において、すでに名作として成立していた『源氏物語』や『枕草子』への対抗意識があります。徒然草の中にはこうした虚栄心と劣等感が入り交じった感情が見え隠れします。
そして11段の展開には、「兼好自身が自分のコンプレックスを自覚していたのではないか」と思わせる節があるのです。
徒然草とはミカンである
草庵の主にとって蜜柑はみずから食べるにせよ売るにせよ貴重なリソース。たとえ「あはれ」に暮らしていても、先立つものがなければ生きていけません。
それを余所者の兼好が「良いとか悪いとか」勝手に批評するのは、住人にとってどうでもいいこと。
「ミカンの木がなければよかった」なんていう当てこすりは、さすがの兼好も無理っぽいことを承知していたように思われます。
そして蜜柑の木が象徴するものとは、彼が書いている日記そのものではないでしょうか。
他人のやり方を非難しているつもりで、実は自分の振る舞いも同じだったというメタ言及が含まれている。
徒然草の11段には「草庵と蜜柑の木」という対比を通じて、
「こんなもの書かなければよかった…でも書かずにはいられない」
といった筆者のアンビバレントな心理がうかがえます。
筆にまかせた開き直り
兼好のひねくれた心を察すると、「かくてもあられけるよ」という表現は、そのまま彼の生き様を表しているように思います。
「筆にまかせた(19段)」
(自分でも気に入らない駄文を書き連ねているけど、もはやこうするしかないのです。私にはこれしかできないのです)
そういう開き直ったような姿勢が、徒然草の11段からそこはかとなく感じられます。
アメリカ人の解釈
ちなみに「かくてもあられけるよ」は米国の研究者ドナルド・キーンの英訳によると、
One can live in such a place
人はこんな場所でも生きられます(拙訳)
「あはれ=しみじみと趣深い」というポジティブな美意識が、「哀れ・憐れ」というみじめな意味に解釈されてしまったようです。
せめて such a (calm/modest/humble) place というように、「つつましさ」を意味する形容詞が間に入ればマシだったことでしょう。
しかしこれはこれでまたおもしろい。
兼好がどう考えようが日本人がどう解釈しようが、20世紀のアメリカ人から見れば無常観など貧乏くさいだけ。そんなアイロニーすら感じさせる一文です。
かくてもあられけるよ
というわけでこのブログのタイトルは「かくてもあられけるよ」。
おそらく全国に10万人ほどいそうな自称世捨て人のうち、1,000人くらいが吉田兼好を名乗ってウェブやSNSで発信していると思われます。さらにその中の100人くらいが書いているであろう、徒然草を気取った日記ブログのひとつです。
長々と書きましたが特に深い意味はありません。
徒然草の参考文献
日本が世界に誇る隠者文学の最高峰『徒然草』。世捨て人を気取るなら、一家に一冊備えておきたいバイブルです。
グローバルスタンダードというアメリカ帝国主義に毒された現代人には、なかなか刺激的な書物といえます。
これに比べればフランスの雄、モンテーニュが書いた『随想録』も吉田兼好のパクリにしか思えません。
すべての随筆の元ネタは、徒然草で出し尽くされているといっても過言ではない。これを読ましてブロガーやエッセイストは名乗れません。
『現代語訳 徒然草』
徒然草の現代語訳をひとつ選ぶとしたら、河出文庫の佐藤春夫訳が読みやすくておすすめです。上述の訳文もこの本から引用させていただきました。
古語の原文は載っていないですが、そちらはネットで検索すれば見つかります。
ついでにウェブには現代語訳も出ていたりしますが、そこはやはり作家の佐藤春夫が一枚上手。
持ち歩きやすい文庫本サイズなのも助かります。無人島にも持って行きやすい。
ぜひ枕元に置いて、寝る前にページをめくってみましょう。これさえあれば一生楽しめます。
Donald Keene “Essays in Idleness”
徒然草をドナルド・キーンの英語訳と読み比べてみるのもおもしろいです。
外国人が徒然草のエッセンスをどう解釈するのかが見もの。英文を通して「そんな常識的な見方もあったのか」という発見もあります。
タイトルからして“Essays in Idleness”という意訳。
「つれづれ」という古語は「所在なさ」や「寂しさ」が第一義で、「つくづく…する」という副詞の意味も含んでいます。
英語の”in idleness”だと「怠惰、無為、無益、無意味…」というネガティブな意味しか連想できません。
そしてGoogle翻訳によると徒然草の英語訳の日本語訳は、なんと「アイドルのエッセイ」らしいです。
いかにもありがちな伝言ゲームのエラー。
吉田兼好には和歌四天王の一人に数えられる有名歌手だったといった一面もあります。たしかに彼の生きた鎌倉~南北朝時代には、アイドルと呼ばれる存在だったのかもしれません。
現代のタレントが書くエッセイのように、徒然草も当時はバカ売れしたことでしょう。
酒井順子『徒然草REMIX』
徒然草の解説本としては、酒井順子さんの『徒然草REMIX』を参照しました。
女性ならではの視点で、兼好が書かなかった裏の心理をザクザクえぐっています。かつての負け犬ブームで磨かれた、サカジュン節の真骨頂です。
「徒然草はなんかブログとかツイッターぽい」と考えていたら、まさにその通りという指摘。清少納言との仮想対談を交えた、現代との比較文化論は読みごたえあります。
いつの時代も出家したり日記で自慢話したり、人間のやることは変わらないのだなあ、としみじみ感じました。
自分語りがやめられないおっさんブロガーは、自戒のためにも一読をおすすめします。