『ハックルベリイ・フィンの冒険』文学史に残る不良少年の旅行記

大人になってから『トム・ソーヤ―の冒険』を手に取ったが、続編の『ハックルベリイ・フィンの冒険』も読んでみた。


前作では脇役だったハックが主役になって、ミシシッピー川を放浪する物語である。どちらかというと『トム・ソーヤ―』はわかりやすい大衆的な小説で、『ハックルベリイ・フィン』の方が含蓄が多く、文学史上の評価は高いように見受けられる。

 不良少年の本領発揮

『トム・ソーヤー』での登場シーンは少ないが、きらりと光る名言を吐いていたハックルベリー。序盤からエンジン全開で持論を展開している。

…ただ、なにもかも別々に料理してあるというだけのことだ。これが残飯桶の中だと話がちがう。いろんなものが一緒くたになり汁がまざり合ってずっと味がいいのだ。

良家の養子になって躾を受けることになった元浮浪児が、昔を懐かしんで語るセリフ。堅苦しいのは抜きとしても、汁が混ざった残飯の方がうまいとは、なかなか到達できない境地である。

ほかにも、ご利益がないと神やモーゼをこき下ろし、地獄に行ってみたいとのたまうハックの言動は、現代においてはまっとうなリアリストだが、当時としてはよほど衝撃的で痛快に思われたに違いない。

そんなハックがしばらく学校に通わされたという設定で、優等生のトム・ソーヤー並みに博識になり、聖書を引用したり凝った手紙も書けるようになるというのは無理がある。物語が進むにつれて、ハックがますます小利口になっていくのは残念だ。終盤でトムが再登場するが、ここまでくるとハックの役回りがトムとかぶってきて、あまりおもしろくない。

黒人奴隷との友情物語

ひょんな理由で奴隷のジムとハックが旅することになる。ジムの性格は、あくまで主人に忠実なお人よしという感じで、『ロビンソン・クルーソー』のフライデーに似ている。どうやら、無人島や川下りのお供は黒人奴隷と相場が決まっているようだ。

ジムが黒人であることは本作の主要なテーマになっていて、逃亡奴隷として引き渡すのか友人としてかくまうのか、ハックが逡巡するシーンが白眉だろう。

かりに正しい道をとり、ジムを引渡したのだったら、今よりいい心持ちがするだろうか?いいや、と僕は言った。いやな心持になるだろう―今と同じ気持ちになるだろう。それなら、正しいことをするのに骨が折れ、悪いことをするのが骨が折れず、その報いが同じだったら、正しいことをしようとしたってなんにもならないのではないか?

酒飲みや詐欺師の悪い大人ばかり出てくる

ハックとジムの二人旅では話が持たなかったのか、途中から詐欺師の王様と侯爵が道連れになる。川沿いの町を巡って、あの手この手の催事をもよおし荒稼ぎするコンビは商才にあふれている。当時は新聞のようなマスメディアも全米に普及していなかったのか、サーカス巡業や詐欺稼業はたやすかったのだろう。

ハックは内心二人を軽蔑しながらも奉仕して、最後に町民にリンチに遭う場面でも慈悲をかけて懐の広いところを見せている。自称王様・侯爵の二人は、序盤に出てくる飲んだくれの親父と一緒で、情けない大人たちを象徴しているかのようだ。

冒険より人種差別がテーマの小説である

最後にトムと偶然再会してジムを開放する冒険物語は、トムの演出癖が出すぎてわざとらしく、あまり興味をそそられない。結局ジムは主人の遺言で自由の身になっており、ハックの父親が死んでいて前作で得た大金も元通りというシナリオになる。実は物語の序盤で、父親の死をジムが目撃しているという伏線が張られているが、勘がいい読者なら気づくかもしれない。

本作はハックの冒険談というより、人種差別をテーマにしたという点で歴史上の価値を認められているように思う。ハックが世間的常識と自分の良心をはかりにかけ、地獄に行くことを覚悟してでもジムを救い出そうと決心する場面が感動的だ。

冒険物語として子供に読ませるには、少々説明に窮するところが多い。著者のマーク・トウェインが意図したごとく、「大人に―大人のみに―読まれるもの」という作品なのだろう。