E・F・シューマッハーの『スモール イズ ビューティフル』で何度も引用されるガンディー。名前は誰でも知っているが、インド独立の立役者として以外、何を考えていた人なのかいまいちわかっていなかった。
岩波文庫から出ている『獄中からの手紙』を読むと、シューマッハーがとなえる「中間技術」という概念は、ほぼガンディーがオリジナルといえる内容だった。刑務所で書かれた弟子に宛てた手紙の中で、カンディーの(改良版)ヒンドゥー教といえる教義に混ざって経済学が批判されている。
主に『スモール イズ ビューティフル』に受け継がれているアイデアを中心に、『獄中からの手紙』の本をレビューしてみたい。
ヒンドゥー教の教義
まずガンディーは政治家である以前に宗教家(マハートマー)なので、信仰を前提として著作を読む必要がある。まずヒンドゥー教によれば、「霊魂は不滅で輪廻転生を繰り返す」と仮定することにより、現生の肉体に執着することは非合理的・非効率なことになる。
そのためガンディーの思想は、一般的なミクロ経済学における消費者の概念と真逆のベクトルになる。真のヒンドゥー教徒にとっては、富を蓄積せず、物に執着せず、ひたすら奉仕を行うことが「効用」を最大化するのだ。
肉体の死滅や輪廻からの解脱を目的とする限りにおいては、喜捨も苦行も合理的活動である。そう考えるとガンディーの宗教的言説は、「超長期の幸福を求める功利主義」といえないこともない。
シューマッハーに関連する部分
そしてシューマッハーは「欲望を減らす→小規模な事業→持続可能な開発」という文脈でガンディーを引用するが、別にヒンドゥー教の教義を全面的に支持しているわけではない。
本書には「結婚したり、食物に塩を加えるのはNG」という禁欲的な戒律も説明されている。そして『スモール イズ ビューティフル』は主に以下の3つのアイデアをガンディーから受け継いでいる。
- 農業や職人仕事の地位向上
- 国産品の優先利用(インドにおいては手織り木綿の普及)
- 最大地域の最大多数の人びとの幸福
ガンディーもヒンドゥー教における不可触民制については、きっぱりと撤廃すべきと宣言している。イギリス留学時代からキリスト教の聖書も愛読しているわけで、(無宗教以外の)他宗に関しても寛容な態度を取っている。
著作は過激だが、ガンディーは狂信者でも原理主義者でもない。その点では、シューマッハーもガンディーの思想で応用可能な部分をピックアップして、自説を説明しているような印象だ。
無所有即清貧=経済学批判
ガンディーの経済学批判といえる主張は、以下の文章に集約されている。
言葉のほんとうの意味における文明は、需要と生産を増やすことではなく、慎重かつ果敢に、欲望を削減することです。
…人々はやろうと思えば、欲しい物を減らすことができます。そして欲しい物が少なくなればなるほど、人びとは幸福に、いっそう心安らかに、健康になれるのです。『獄中からの手紙』
この「無所有即清貧」という思想は、自己放棄を理想とした奉仕活動につながる。一方で、シューマッハーはガンディーの語るヒンドゥー教の一部を、経済学への批判に援用しているにすぎない。さすがに「鳥のように頭上に屋根をいただかず」、食物も貯えずに暮らせとまでは言っていない。
マックス・ヴェーバーによれば、シューマッハーが批判する資本主義も、もとはプロテスタントの合理的禁欲的から生じているはずだ。宗教的に目指す目標が違うと、インドとヨーロッパで生活方針も真逆になってしまう現象は興味深い。
清貧に関して上記を含むいくつかの言説、
- わたしたちが必要でない物を所有しているなら、それは盗品とみなされなければなりません
- わたしたちは所有者としてではなく、受託者として、物に関心をいだくべきである
などは、宗教観を抜きにして現代版のミニマリストにも刺さりそうなメッセージである。紀元前からバラモン教を経て仏教に受け継がれてきた思想なので、ガンディーの言説に普遍性を感じるのかもしれない。
宗教に関するジレンマ
「謙虚」に関する章は、信仰に関するジレンマとして読みごたえがある。
謙虚という概念を戒律化することは、偽善や狡猾という反作用につながるので避けるべきとされている。「謙虚は意識的に実践されるものではない」とガンディーは言うが、それでは解脱という個人的目標を目指した宗教活動は、すべて利己的=偽善ということにならないのだろうか。
そして不殺生をモットーとしつつ、自分の家族や同胞が盗賊の犠牲になるのを静観すべきなのだろうか。そこまで極端なケースでないが、スワデシー(国産品愛用)について「万人の奉仕のため…すすんで家族を犠牲に供するのが、家族にたいする最高の奉仕となるでしょう」と説明されている。
実は中道的なポリシー
岩波文庫の薄い本から、言葉の端だけ捉えても意味はない。しかし「誰にとっての正義か」という観点で読めば、ガンディーやシューマッハーの評価も時代によって変わってくるだろう。
そして『獄中からの手紙』をよく読むと、『スモール イズ ビューティフル』と同様に中道的ともいえるコメントが出てくる。両者はあくまで政治的なパフォーマンスとして「小さいこと・貧しいこと」の利点をうたっているだけで、自説を盲目的に信じるべきでないと釘を刺している。
しかしながら、スワデシーといえども、他の善行と同様、極端に崇拝されすぎますと、かえって自滅してしまいます。このことは、よくよく心しなければならない危険です。ただ外国の商品であるという理由だけで、外国製品を排除し、間尺に合わない製品を自国に普及しようと、国民の時間と金を浪費しつづけるのは、犯罪的な愚行であり、スワデシーの精神にもとります。
『獄中からの手紙』
たとえ外国製品より品質は劣っても、自国の製品を使うことは、国内の雇用を生む乗数効果が期待できる。ただし国産品の欠点は積極的に改善すべしとガンディーは説いている。
一見極端な主張だが、よく読むと合理的な根拠がありバランス感覚にすぐれている、というのがガンディーとシューマッハーに共通する傾向に思われた。結局のところ、どちらも産業や雇用の持続可能性という観点に重きを置いていて、「スモール」や「スワデシー」というキャッチコピーは一時的な方便に過ぎないのだろう。