現代語訳で読む福澤諭吉『学問のすすめ』~今でも通用する処世術が満載

福澤諭吉といえばかつての一万円札。お札のことを「諭吉さん」と呼ぶ人もいるくらいだから、日本人に一番知られている過去の偉人といえるかもしれない。

何だか偉い人というイメージはあるが、夏目漱石のような小説家でもないし、西郷隆盛や大隈重信のようば幕末~明治期の政治家でもない。渋沢栄一のような実業家というイメージもあるが、慶應義塾の創設者であるから、どちらかというと学者肌なのだろうか。

代表作が『学問のすすめ』というのと、「天は人の上に人を造らず」というフレーズだけは知っているが、実際に本を読んだことはない。それが現代人における福澤諭吉の一般的イメージではなかろうか。

『坂の上の雲』秋本好古の愛読書

数年前、NHKで『坂の上の雲』がドラマ化された際、阿部寛扮する秋山好古(よしふる)が『学問のすすめ』に感銘を受けて絶賛するシーンがあった。ドラマのように、明治期の知識人は誰もが読んでいて、ものすごい影響力があったのではとうかがわせる。

ためしに岩波文庫から出ている本を手に取ってみたが、時代がかった文語体でとても読み通せる気がしなかった。数年間そのまま忘れていたが、たまたまブックオフの新書安売りコーナーに現代語訳の『学問のすすめ』があるのを発見した。

斎藤孝の訳で、かなりくだけた調子で書いてあるのが読みやすい。当時の人々も、こんな感じで読み親しんでいたのかとイメージがわく。文語体の堅苦しいスタイルとは裏腹に、旧幕府や封建時代の反省、安易な西洋礼賛を戒めるバランスの取れた時代感覚に共感が持てた。

福澤諭吉が導入しようとした「国家」の概念は崇高すぎて日本人の体質には結局なじまなかったように思う。しかし、高度成長期や明治期を振り返って「昔の日本人は偉かった」と感嘆する前に、こういう具体的な思想があったと知っておくことも大事だろう。『葉隠』や『武士道』と同じく、一度は読んでおきたい名著と思う。

人間は平等でない

冒頭の一文は誰もが知っている「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」なのだが、その後に続く文章が重要である。「生得的には人間はみな平等」と評しつつも、この世界には避けられない格差が存在することを福澤は認めている。

賢い人と愚かな人、金持ちと貧乏人…その差が生じる理由は、ひとえに「学問を知っているどうか」という点にあると喝破されている。肉体労働や簡単な仕事をする人は地位が軽い、逆に医者・学者・役人など重要な仕事をしている人は社会的地位が高い。その違いは学問をして物事をよく知っているかどうかである。

「職業に貴賤なし」という考え方には真っ向から反対して、現実的な格差を認めるところから出発するのが意外なリアリストに思われた。「天は」人の上に人をつくらないが、「人が」努力するかしないかで身分の上下が決まるのだ。そこで福澤が提案するのが「学問のすすめ」なのである。

徹底した実学志向

『学問のすすめ』第2の特徴は、徹底した実学志向、プラグマティズムといえる。それまで主流だった漢学者、国学者は「生活の役に立たない」と切捨て、和歌や詩など公家的な趣味も否定している。代わりに奨励されるのは地理、歴史、経済学、修身学、帳簿の付け方やそろばんの稽古といったたぐいである。

アジア諸国が続々と欧米に植民地化されていくという危機感の中、たしかに実用性のない学問は無意味に思われただろう。時が変われば、逆に漢学・国学を究めた方が出世に役立つ時代もあったことだろう。現代でも、簿記はできるが歴史や文学にまったく無知では、教養がなくてつまらないと思われそうだ。要は程度問題で、「学問するにもバランスが大事」と言っているように思われる。

孔子や禅批判

同様に、福澤や儒教や孔子も手厳しく批判している。

答えて言おう。天の道理に背くようなことを言う者に対しては、孔子だろうと孟子だろうと、遠慮くなく罪人と言ってよろしい。

妾の風習について考察しているくだりだが、男尊女卑や孝行の行き過ぎを批判する際は、孔子も容赦なく切り捨てている。妻と妾が同居する家を指して「これは人の家ではない。家畜小屋である」と表現したり、

真夏の夜に、自分の体に酒を降り注いで蚊を招き寄せて、親に近づく蚊を防ぐ、という話もあるが、それよりも、その酒を買うお金で蚊帳を買う方が賢いのではないか。

など、批判の仕方もシニカルでおもしろい。福澤が米国留学で習得してきた経済的合理性に照らし合わせれば、江戸時代の風習や考え方は奇妙で仕方なかったのだろう。日本人になじみが深い仏教や、禅、悟りという概念すら、現実離れしていて役に立たないと退けている。

一方で、儒教や漢学を全面否定するのでなく、使えるフレーズがあれば孔子も引用するのが福澤のフランクなスタイルだ。西洋諸国に追いつくため、国の独立と発展に寄与するためなら、古い思想でも使える部分は残していこうという功利主義的な考え方が見受けられる。

ユーモアたっぷりの西洋批判

孔子批判と同様に、世間一般には美談ととらえられている忠臣蔵も「大間違い」とこき下ろしている。幕府の評定に不服なら、なぜそれを幕府に訴えず仇討ちにのぞんだのか、政府の権限を犯して私刑を加えた点では、47人の赤穂浪士は乱暴者でしかない。

延々とかたき討ちが繰り返される無法の世の中、『ロミオとジュリエット』のモンタギュー家とキャピュレット家のように、浅野家と吉良家で無意味な殺し合いが続いたことだろう。こういう家同士の争いというのは何も中世特有の蛮習ではない。

福澤が訪れた19世紀の米国、『ハックルベリー・フィンの冒険』にも、ミシシッピー河沿岸で殺し合う一家のエピソードが出てくる。きっと欧米でも忠臣蔵みたいな話があることを知って、理にかなわない風習は真似するべきでないと言っているように思われる。

第15編で、欧米女性のコルセットが妊娠の機能を妨げていると批評しているくだりは、ユーモアたっぷりである。いわく「東西の風俗習慣を取り替えてみて」、ルターの代わりに親鸞が西洋に出現して浄土真宗を広げるなど、たとえ話を駆使して西洋文明の至らなさも訴えようとしている。

奇しくも福澤はベンジャミン・フランクリンを引用して、仕事における段取りの重要性を強調している。同様に、欲張り・ケチ、節約・経済的という欠点・美点は紙一重と認めて金儲けや節制も推奨している点では、楽観的な実業家という側面もある。

明治期には『学問のすすめ』に並んで、サミュエル・スマイルズの『自助論』を翻訳した『西国立志編』が広く読まれたという。

こういう実直な商売人の倫理が尊ばれた時代でもあったのだろう。中村正直訳の『西国立志編』も現代語訳が出ているので、合わせて読んでおきたい。

学問の真の効用

ここまで来ると、『学問のすすめ』とは単に「勉強して偉い学者やお役人になりましょう」と青少年を育成する啓蒙書にとどまらず、メタレベルの学問を定義して国民全体のリテラシーを向上させようという試みに見えてくる。

福澤はガリレオやニュートンを引用して、「既存の習慣を疑うこと」のメリットをとりあげている。J・S・ミルまで引用しているので、福澤の博学ぶりは当時としては驚異的でなかろうか。そして学問とは究極的に、「取捨選択の判断力を養うため」にあるのではないかと提案している。

ここまで来ると、単なる明治時代のベストセラーという枠を超えて、現代でも十分通用しそうな本に思われてきた。前半の国家論、「報国の大義」というのは時代がかっていて辟易するが、これも国家契約説を新たに植え付けようとした明治初期に特有の気風なのだろう。

終盤は福澤流の処世術

終盤はどちらかというと福澤の処世術紹介で、今でもビジネス書として通用しそうな内容に思われる。ただし、福澤の場合は本書冒頭で「職業の貴賤、格差は存在する」とずばり言ってのけたように、一つの価値観を自信をもって敷衍するような楽観性に彩られている。

一方から見れば、この人間社会のことは、すべて虚構で成り立っているわけではない。人の知性や人間性は、花の咲く樹のようなもので、栄誉や人望は咲いた花のようなものだ。

…栄誉や人望を求めるべきなのであろうか。そのとおり。努力して求めるべきものである。ただ、これを求めるにあたっては、相応のバランスをとることが重要なのだ。

口先だけの人間や虚飾を廃しつつも、立身出世して諸外国と対等に渡り合い、国家に奉公することは手放しで称賛されている。弁舌の術を磨いて、表情や見た目は快活で愉快に保ち、人との交際もどんどん広げよう、という根本的な明るさが、この本が売れたもう一つの理由かもしれない。

人間多しと言っても、鬼でも蛇でもないのだ。…人間のくせに、人間を毛嫌いするのはよろしくない。

これだけ欧米諸国を見てまわった福澤からすれば、当時の日本などガラパゴスに見えてしょうがなかったと思う。それでも国民を見捨てず啓蒙活動に尽力しようと努めたのが、福澤の良心であり悟りだったのかもしれない。

耳に痛い税金論

最後に本書で一番印象に残ったフレーズを紹介しよう。個人的には第7編「税金は気持ちよく払え」というくだりが衝撃的だった。

およそ世の中に、何がうまい商売かといって、税金を払って政府の保護を買うほど安いものはない。

確かに冷静に考えれば、今の日本で安心して暮らしてビジネスを続けられるのは、政府の庇護があるおかげである。そのためには、組合に出資するように多少の税金を払うのをいとわないのは、合理的な考えである。

筋の通らない金であれば、一銭でも惜しむべきではあるけれども、道理において出すべきだけではなく、安い買い物でもあるのだから、税金はあれこれ考えずに気持ちよく払うべし。

なぜ現代でも給与から税金が天引きされることに不満を感じ、節税は美学、ビジネスマンとしてのたしなみと呼べるくらい正当化されているのだろうか。よくよく自問すると、税金を普通に納めること自体が「筋の通らない」こと、そして源泉徴収されることは「学問がないために搾取されている」と感じる気持ちがある。

福澤の理想国家は実現しなかった

福澤は中国の政治制度を批判して、「遊民」という考え方、聡明な君主・賢い役人・従順な人民という理想は一度も実現したことがなかった、と述べている。「御恩は迷惑、仁政は悪性…この目論見は現実に合っていないのだ」と隣国をこき下ろしているが、結局それから100年経った日本でも、福澤の掲げた理想の国家国民は実現しなかったのではないか。

江戸時代に幕府をあがめたように、今でも役所のことを「お上」と呼ぶし、国民の気質というのは長い目で見ればあまり変わらない気がする。福澤も本書では徴税制度を礼賛しているが、現実ではビジネスマンとして節税に精を出していたと想像してもおかしくはない。脇が甘くては慶應義塾の経営も成功しなかったことだろう。