「Bライフ」とググればトップに出る「寝太郎ブログ」で有名な高村友也さんの最新作『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか』を読んでみた。今回は「人はなぜ生きるのか」という哲学的なテーマを突き詰めて、小屋暮らしにいたるまでの過程をつづったエッセイだった。
数あるミニマリストブログの中でも、サバイバル要素が際立つ高村さんのウェブサイトは、たまに訪れては「まだ生きているか」とはらはらしながら近況をチェックしている。趣味の小屋暮らし、節約日記とは一線を画するハードコアな寝太郎ブログは、わざわざアフィリエイトのリンクを踏んで応援したいサイトの一つだ。
東大生がホームレスになるまで
土地探しから小屋づくりの実践論であった『Bライフ』、世界の小屋ブームを紹介した『スモールハウス』。前2作と打って変わって、本著はなぜそういうエクストリームな生活を選んだかという自伝的エッセイ。
今回は排水の処理方法とか具体的な話はほとんどなく、埼玉の山間に土地を買って小屋を建てるようになった経緯が、子供時代の回想からさかのぼって描かれている。高村さんのファンであれば、楽しめるかもしれないが、単純にミニマリストとかシンプルなライフスタイルに興味があるだけの人には拍子抜けだろう。
ざっくりまとめると、「人はいずれ死ぬ」という観念に小学生の頃から取りつかれ、何をするにも気になって仕方がなくなった。頭はいいので東大の哲学科に進み、慶応大の大学院に進学したが、学問としての哲学には興味が持てなくなりドロップアウトした。都心での路上生活を経て、山の中に土地を買い小屋を建てて暮らすようになった。神奈川の河川敷にもう1つ土地を買い、都市部と山の小屋を往復しながら生活している。客観的なストーリーとしては、こんな感じだ。
順法的な脱社会化、反資本主義
ホームレスになる過程は千差万別かもしれないが、高村さんの場合「そうだ、土地を買おう」と飛躍するのがユニークだ。その後、ブログや著作で情報発信して有名になったが、単純に田舎にこもって自給自足生活を送る人は、世の中にごまんといる気がする。本書を読んでいると、小屋暮らしが単なる趣味でなく、現代社会に対する挑戦という気分になってくる。本書で語られる「順法的な脱社会化」というコンセプトには共感を覚える。
こんなことなら、普通にアパートで暮らしていたほうがよほど気楽でははないか。…過度な脱所有や脱社会生活は、必ずしも自由へと至る道ではない。…そうだ、土地を買おう。…僕の興味は、順法的な脱社会化へと移っていった。
引用:高村友也『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか』
路上生活は通報されたり、他のホームレスから嫌がらせされたり、苦労が絶えない。自分もテントや車で暮らした経験はあるが、どんな田舎に行っても結局「他人の目」というは避けられなかった。法的にもグレーな路上で暮らして余計な苦労をするくらいなら、少しは稼いで人並みに安アパート暮らしする方がどれほど気楽かと、身にしみて実感している。
僕は、イデオロギー云々以前に「資本」という考え方が嫌いである。お金や物、知識などの、広い意味での初期投資や維持費は、何も生産していない談かいでは事実上の借金である…毎日がマイナスから始まることになる。
引用:高村友也『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか』
投資家でなくても、会社で働くということは自分の身体・時間という資本を切り売りすることにほかならない。雇用契約も借金のようなものだ。仕事で他人と関わる以上、約束事や義務が生じるのは避けられない。契約に縛られるくらいなら日雇い労働の方がまし、という考え方もある。
コミュニケーションの回避と思考の単純化
とにかくコミュニケーションというものの大半が億劫で仕方がない。「寂しい」という感情は、少なくとも自覚できている限りにおいては皆無である。
引用:高村友也『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか』
高村さんが今の小屋暮らしで幸せだというのは、強がりでもなんでもなく本当なのだろう。働きたくない、結婚したくない…そういう気持ちを素直に見つめると、他人とのコミュニケーションを減らしたいという本心がある気がする。結局すべては対人関係の悩みか。
しかし人間が社会的動物である以上、属する集団が、学校>職場>隣近所>家族、とだんだん小さくなっても、コミュニケーションの必要性はなくならない気もする。
お金があろうとなかろうと、必要最低限の生活をしたい。…生活の全体を質素にしたい…そうして欲求の層を肉体に直結するくらいまで落としてゆくと、ようやく自分の行動に対する必然性というものが湧いて出てくる。…つまり、最低限の衣食住である。
引用:高村友也『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか』
食うものに困る、寝るとこもない、となると、必然的に生とか死とかその意味とか考える余裕がなくなる。だから最低限の衣食住、質素な生活で済ませる。ミニマリストを目指す理由の一つに、「持ち物と一緒に考え事も減らしたい」という気持ちがあると思う。人に頼るといろいろ煩わしいことが出てくるから、一人でできる範囲で暮らしたい。最低限の生活なら、衣食住の確保が最優先だから、余計な悩みも吹っ飛ぶだろうと。
哲学への懐疑、自分への興味
正確に言えば、僕が興味あるのは哲学ではなく、自分だった。自分自身の問題にしか興味がなかった。
引用:高村友也『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか』
大学で研究を進めるうちに、個人的な興味と学問体系がずれていると感じることはよくある。理系なら研究テーマはほぼ外部から与えられるが、文系でも所属する研究室や予算によって、まるっきり自由というわけではないのだろう。
本書では、高村さんが卒論で取り組まれたらしい、ヒュームの「帰納法の懐疑」が紹介されている。経験的事実から帰納法で推論を行うとき、その原理自体を正当化するには再びその原理を用いなければならないという自家撞着がある。つまり推論という行為は一見論理的だが、盲目的、感情的に行われている。
世間の常識を超えた真理のようなものがあると仮定して、そこに接近すべき理性や知性が実はあやふやで役に立たない代物だった、と気づくのは痛快である。もっと言えば、人間はかなり適当で、日常的には帰納法を適用できるほどサンプルを集めずに、帰結から一気に前提条件を決めつけている気もする。パースのabduction、あるいは後件肯定的な推論で誤謬を重ね、世論を形成し、そしてしばしば手痛い目にあう。
「生きる」ということの外部の「意味」
人はいずれ死ぬという真理――我々はどこから来てどこへ行くのか。世界はそれを認識する主体なしでも絶対的に存在するのか…。小学生くらいの頃に、誰しもそんな考えに捕らわれたことがあると思う。大人やまわりの人間は、そんな重大な事実を知らずに、いや知っているとしても、なぜ疑問を持たずに暮らしているのだろうかと。
「我思う、ゆえに我あり」と気づくのは青年期の通過儀礼で、中高時代に一度はかかる感染症のように思う。たいていは、部活や受験で忙しくなって考える暇がなくなるのだが、ここで躓いて、あるいは考え続けられる適性があって、哲学の道に進む人がいるのだろうか。
高村さんの個人的体験には、共感できるところと、そうでないところがある。子供の頃の問題意識は近いと思うが、その後、大人になるにつれて、考えても意味ないことは深く考えないようになった。ゲーデルの第2不完全性定理のようなものかもしれないが、死後の世界とか生きている意味とか、人間が考えても永遠にわからない(理論体系の中で無矛盾であることを証明できない)ことは考えても無駄だと悟った。
あるいは、脳科学や人工知能の研究を参照すると、「自分」とか「意識」というもの自体が、身体によってつくられた便宜的な機能(エージェントの集合)に過ぎないとも考えられる。昔は自己中心的だったが、世間にもまれてちょっと謙虚になったという感じだ。
武士は食わねど高楊枝
どう理屈をこねても、世間一般に低収入の小屋暮らしは「負け組」とみなされるだろう。「生活をどこまで切り詰められるか」とか「仕事をしなくても暮らせるか」とか、低収入でも幸せに暮らせる方法に思いを巡らせるとき、いつも思い出す小説のセリフがある。
「乞食はね、あんまりバカはおらん、そりゃ乞食になったら頭やられて半分おかしゅうなってしまうばってん、その前はね、あいつらバカじゃなかとよ、東大とか京大とかにみんな行こうて思うとって、そうね、ちょっとした拍子やろね、もう、ちょっとした間違いやろね、そいで、簡単に、乞食になってしまうとやろね、乞食は、臭かもんね」
引用:村上龍『69 sixty nine』
理屈はどうであれ、人間、臭くなったら終わりな気がする。見た目的に他人に不快感を与えたくないとか、少なくとも人並みに暮らせている風を装って余計な摩擦を減らしたいとか、極限状況でそれどころではないときにも、意外と体面を気にしていることに気づく。明日、食べるものもないという状況でも、まさに「武士は食わねど高楊枝」。
自分はまだ仕事を捨てて野山にこもる度胸はないが、いつか高村さんのように吹っ切れた生活をしてみたいと憧れる気持ちはある。たとえ世間から蔑まれても、老荘思想やマルクス・アウレリウスの著作が後世に受け継がれているのは、いつの時代にも「世捨て人になりたい」ニーズがあったからだろう。あまり変化はなさそうだが、今後も寝太郎ブログを見守っていきたい。