図書館で今日の日経新聞が空くのを待っている間、何気なく雑誌の『ゲーテ』を手に取った。週刊誌からマンガまで置いてある市立図書館だが、なぜか男性ファッション誌のチョイスはこのゲーテとメンズクラブである。
MENS’CLUBの方はうんちくが多いのでわかる気もするが、ほかを差し置いて新興雑誌のゲーテが選ばれているのはなぜだろう。タイトルが文芸的だからだろうか。
スタアバーのカクテル「パーク・ライフ」
平日昼下がりの図書館は、ほぼ100%引退した高齢者か、まれに障害者や無職で暇な中年も来ている。自分は後者の訳アリな方だが、ちゃんと働いているのに平日図書館に来ると後ろめたく感じるのはなぜだろう。
新聞がなかなか戻ってこないときは、持って行った人が居眠りしているか、キープしたまま別の本を読んでいるに違いない。見つけたらマナー違反だと注意してもいいが、無料のサービスでわざわざせっつくこともないかと、諦めて帰ることが多い。
ゲーテの最後の方に、銀座にあるバーの紹介があった。スタアバー、略してスタバ。おすすめのカクテルが、『パーク・ライフ』という吉田修一の小説タイトルを名付けたものだった。黄緑色のショートサイズで、見た目はチョコミント味のグラスホッパーを連想させる。
その後、何気なく国内~海外の小説コーナーをうろうろしていたら、『パーク・ライフ』が置いてあった。芥川賞の受賞作とはいえ、16年も前の作品だと予約も不要で普通に本棚に並んでいるようだ。
最近読んだ芥川賞作品といえば2016年の『コンビニ人間』で、あれはおもしろかった。その前だと2003年の綿矢りさ、金原ひとみダブル受賞のときくらいで、基本的に最近の小説は読まない。人生の限られた時間、できれば淘汰されて外れのない古典を優先して読みたい。
パーク・ライフはタイトルからすると、公園で野宿するとか『Bライフ』な話かと想像していた。コンビニ人間は作者の世代とシチュエーションが似ていたから、共感を持てた節がある。Bライフにはシンパシーを感じるので、もし同じのりならパーク・ライフも楽しめるだろう。
図書館でパーク・ライフに呼ばれた
歳を取るほど読む本は古典やビジネス書ばかりになり、小説を読むのはコンビニ人間以来2年振りだ。貸出期間2週間あれば、仕事の合間でも読破できるだろう。『恋は雨あがりのように』3巻で、店長と女の子が偶然図書館で会うシーンがある。
どこかで橘さんを呼んでいる本があるかもしれない。それはきっと、今の橘さんに必要な本だよ。
たまたま手に取ったパーク・ライフが今の自分に必要かどうかわからない。コンビニ人間みたいな話だったらいいな、という軽い期待でパーク・ライフを借りて帰った。
(以下ネタバレ)
Bライフではなかった
小説の舞台になっている日比谷公園は何度か訪れたことがあるが、銀座や東京駅に近い、都心に用地確保されたぜいたくな公園というイメージがある。ニューヨークのセントラルパークみたいなものだろうか。
皇居の近くも緑があるが、監視が厳しくてのんびりできる雰囲気ではない。濠を渡った南の日比谷公園なら、この小説に出てくるような不思議な人たちがいてもおかしくはない。もっとも、いまどきドローンならぬ気球でも公園で上げようものなら、即座に取り上げられてしまうだろうが。
地下鉄の通路を出て、うつむいたまま公園のベンチまで歩き、一気に目を見開くと軽いトランス状態を味わえるらしい。自分も朝起きてすぐベランダに出ると、そんな気分がする。
なぜかしら、涙が込み上げることもある。ただ、その涙に理由をつけようとすると、逆にすっと何かがさめて、すぐに涙は乾いてしまう。
冒頭にあるこの一文に、この作品のエッセンスが凝縮されている。仏教のように、言葉では伝えられない直感的な真理。記録にとどめようとしたとたんに失われてしまう感覚。そういうものを表現しようとしたのがパーク・ライフだと思う。
吉田修一の文体は、セリフのある部分以外、改行なしで短い描写が淡々と続く。主人公は想像していたBライフとは縁遠いサラリーマンで、しかも女性向けの雑貨や化粧品を扱っていておしゃれな外観というイメージがある。フィットネスクラブに週3日通って鍛えているという描写もある。
知人で別居中の宇田川夫妻の家に住んで、ペットの猿のおもりをしている設定は一見変わっている。しかし、都心に住んでいる裕福な人なら、なにかしら変わったエピソードもありそうで違和感はない。
なにも起こらない小説
全体のプロットとしては、主人公の私と二人の女性をめぐる恋愛ものと読めないこともない。しかし、最後まで何も起こらないというのが、まさに21世紀の草食的な小説なのかもしれない。『恋は雨上がりのように』と同じく、「何も起こらない」ということが作品に深みを与えるための、純文学の常套テクニックではないかと思われてくる。
「私」は地下鉄で人間違いで声をかけてしまった女性と、日比谷公園で再会する。しかもその女性は、以前から公園でくつろぐ私を観察していて、公園を訪れる人たちの分析を通じて意気投合する。また、私は高校時代の同級生ひかるにずっと片思いで、最近ひかるが結婚するという話を聞いて動揺する。
公園のスタバ女とはギャラリーの写真展でデート?するが、「よし…私ね、きめた」と、何を決断したのかも一切明かされないまま、去ってしまう。ひかるとも電話で話すが、結局結婚するのかどうかという肝心なところは聞けずじまいで終わる。
普通に恋愛小説として読者が期待するような出来事は何一つ起こらない。出てくる場面も、日比谷公園と、宇田川夫妻のマンション近くの公園くらいである。それで一体何がおもしろいんだろうと、細部まで読み込むとじわじわスルメのように味が染み出てくる。
パーク・ライフは「何もないけど、すべてがある」。そういう最近よく聞くようなキャッチコピーを連想させるような小説だった。
人間観察の妙
ひとつの解釈として、「これは物語というよりも主人公の人間観察をメインにしたエッセイ」と捉えることができる。ところどころ挟まれる私の人物評価が鋭く、思わず付箋を貼ってしまうページが多かった。
結婚当初から二人を見てきたが、おそらく夫婦のあいだに問題という問題はないのではないかと思う。敢えていえば、それが問題。互いに自立した現代的な夫婦の典型のようなカップルなのだ。
健康的、常識的ということが、逆説的に人間としては不健全に思われるという逆説がある。
なんにも隠していることなんてないわよ。逆に、自分には隠すものもないってことを、必死になって隠しているじゃないのかな。
フィットネスクラブに関するコメントも、ちょっとおもしろい。
仕事帰りに「進まない自転車」を漕がされたり、わざわざお金を払ってまで「重い物」を持たされているかと思うと腹が立つ…
誰もが心の中で思っているけど口には出さない真実で、裸の王様のように子供から指摘されるとドキッとする感じだ。
作品のテーマである公園に関していうと、
ほら、公園って何もしなくても誰からも咎められないだろ。逆に勧誘とか演説とか、何かやろうとすると追い出されるんだよ。
本の後半に収録されている『flowers』という小説で、ばあさんが生け花について「床の間ってのは、その家のゆとりたい…ゆとりってのは、無駄のことさ」と語る場面がある。
パーク・ライフの公園も、床の間と同じ役割「軌道を外れた人工衛星」がただよう場所に設定されている。何かしら変わった人が公園に集まって来るが、本来公園とは「何もしない」場所であるから、彼らが出会っても結局「何も起こらない」。
自分も人間観察したくなる
実際、日常生活でそんなに毎日事件とか恋愛沙汰が起こるわけでもない。だからこそ刺激的なフィクションが人類に愛好されるわけで、あえて何も起こらないカタルシス追求型でない小説というのは「純文学」のカテゴリーにくくられる。パーク・ライフはその典型だが、まさにそれが芥川賞を受賞した理由なのだろう。
自分が体験したはずの2000年代はいつの間にか終わってしまったが、2002年の時代的な気分がこのパーク・ライフに凝縮されている。非武装地帯(DMZ)としての日比谷公園が、ミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』という映画で描かれた1960年代ロンドンの公園と不思議にリンクして見える。
パーク・ライフを読むと、なんだかまわりにいる人たちにも、それぞれ変わったエピソードがありそうに思われてくる。実際、変な趣味とかこだわりとか、普通の人にも「普通でない部分」というのは多かれ少なかれあるのだろう。
急に他人を観察するのがおもしろくなって、通勤中、電車に乗っているときでも退屈しなくなった。まるで植物とか鳥の生態に詳しくなったみたいに、パーク・ライフを読んで街を歩く際に外界を観察する楽しみが増えた気がする。