2019年11月16日から2020年2月16日まで東京都現代美術館(以下、都現美)で開催されている、ダムタイプの「アクション+リフレクション」展を見てきた。
主要4作品の最新インスタレーションを展示し、これまでの活動をまとめた集大成。過去作品の台本を収めたアーカイブ・ブックも閲覧できて、往年のファンにはたまらない内容だった。
80~90年代のダムタイプを知らない人でも、見どころだけチェックできる絶好の機会。近作の見逃し組も含めて、地方から上京してでも観に来る価値のある企画展だと思う。
(2020年2月9日更新)
ダムタイプってなに?
ダムタイプ(Dumb Type)は一言でいうと、コンテンポラリーダンスに映像を加えたパフォーマンス集団だ。
身近な例でいえば、人気のテクノポップユニットPerfumeの元祖ともいえる。デジタル系の舞台演出を手がけるライゾマティクスは、確実にダムタイプの影響を受けている。
映像・音響担当の高谷史郎と池田亮司は、それぞれソロでも活動してクオリティーの高い作品を発表している。この2人の影響力を考えると、2000年以降、日本のメディアアートや電子音楽の方向性を決定づけたグループといっても過言ではない。
貴重なアーカイブ・ブック
マニアにとって最も価値ある展示と思われるのが、最初の部屋に置かれた巨大なアーカイブ・ブック。ダムタイプの全作品に対して、台本や振り付け、舞台や装置の設計図など製作に関する詳しい資料が収められている。
内容は作品のコンセプトを考えたポエムのようなものから、海外公演の新聞記事まで盛りだくさん。1,000ページ以上あり、短時間ではとても読み切れないボリュームだ。大判で見やすいが、残念ながら会場には一冊しか置かれていない。
舞台の設計に関しては、映像・機械・人間を含めたパフォーマーの立ち回りについて、新しいノーテーション(記譜法)が模索されている。
映画の絵コンテのようなものから舞台装置の図面、電子回路の設計図までまで表現はさまざま。多分野にまたがる関係者に対して、試行錯誤で意図を伝えようとしてきた苦労がうかがえる。
舞台・展示設計図の見どころ
個人的に気になったページをいくつか取り上げてみたい。
作品名のひとつ『OR』とは、接続詞の「オア」、もしくは条件判定の論理演算子かと思っていた。アーカイブ・ブックのメモ書きによると、実は『0R(ゼロ・アール)』=半径ゼロ、すなわち「点」を意図したものであったらしい。
1987年の『Pleasure Life』では、制御装置の写真やプログラムが掲載されている。表には出ないこうした機器類も、見た目にこだわってデザインされている。
展示会場に置かれるオブジェのドローイングも質が高い。クリストのランド・アートのように、「企画書や設計図も作品の一部」という気合いが感じられる。
ネット上で「12月27日に発売予定」とされている展覧会の図録に、アーカイブ・ブックの内容が収められているのかは不明。
※『DUMB TYPE 1984 2019』発売されました。説明を読む限りは展示されていたアーカイブ・ブックと同じものらしいです。
※書店で実物を確認しました。『DUMB TYPE 1984 2019』は今回の展示内容および過去作品の写真や資料をまとめたもので、展示されていたアーカイブ・ブックとは別物です。
アーカイブ・ブックはミュージアムショップにもなかったので、今のところは会場でしか読めない超貴重な資料。このサイズのまま販売されるとしたら、ギネス認定されたヘルムート・ニュートンの写真集と同じクラス。きっと専用の台座もセットになり、サイン入りで100万円くらいすることだろう。
自宅には置きたくないが、都現美かNTTインターコミュニケーション・センター(ICC)あたりに収蔵されそうな気がする。常設展示されたら、またぜひじっくり読みに行きたい。
高谷史郎さんのFacebook情報によるとレアな一点ものらしいので、お取り扱いは慎重に。ほかの人たちと譲り合って閲覧ください。
History & Archiveコーナー
会場の中庭に面した通路部分には、歴代公演に関するパンフレットなどが展示されている。
ダムタイプは印刷物のクオリティーも高い。過去にもらったチラシを思い出したり、未発掘の海外向けフライヤーを見つけたりと、これもファンサービスの一環といえる。
海外公演の資料が多く、アーカイブ・ブックにも外国の新聞ばかり掲載されていた。ダムタイプはどちらかというと、日本国外で高く評価されてきたようだ。
各展示のガジェット的見どころ
ダムタイプの作品に明快なストーリーはなく、演出家の古橋悌二が考えるコンセプトは難解だ。しかし表現の抽象度が高いので、観客側が適当に意味を想像して解釈できる余地がある。
今回の展示も正直なところ、相変わらず意味がわからないものが多かった。しかしガジェット好きとしては映像や音響はもとより、モニターやスピーカーなどの構成装置を見るだけでも楽しめる。
舞台装置がそのまま単体のインスタレーションとしても成り立つところがダムタイプの特徴。メディアアート職人とでも呼べそうなエンジニアやプログラマーが、裏ではおおいに活躍しているのだろう。
活動のルーツは演劇であるが、「アクション+リフレクション」展に登場するのは機械と映像、そして音響。各作品の役者といえるハードウェア構成を見てみよう。
『Playback』の装置は完成度が高い
もとは1989年の作品で、最新技術により、ほぼ完全にリニューアルされている。
4×4のグリッド状に配置されたターンテーブルの上でレコードが回り、各ユニットの下にあるスピーカーから音が出る。
それぞれバラバラに演奏しているように見えて、たまに同期する瞬間もある。裏では精密にコンピューター制御されているのだろう。会場で鳴っている音の意味はわからなくても、この装置自体が彫刻的で美しい。
ターンテーブルは既製品を分解したのでもない独自開発に見える。透明な円盤をベルトで回す仕掛けで、音が出るときだけライトで照らされる。
会場を俯瞰してみると、各ユニットがランダムに演奏しながら点滅しているように見える。ユニットが相互に連鎖反応しているようにも見えるが、動作アルゴリズムについては詳しく説明されていない。
ターンテーブルの下にはUSB端子や調整用のツマミが見える。しかし装置は最小限のブラックボックスだ。
スケルトン仕様の黒いアルミフレームで、ジョイントの金具はわざと荒くヤスリがけされている。各国を巡回展示するため、分解して輸送できる構造にしてあるのだろう。
細かいところでは、床上のタイルカーペットに溝をつくって配線を納めている。市販のケーブルモールは使わず、フラットな目張りを実現したバリアフリー設計といえる。
みずからをすり減らしつつ、目的もなく動き続ける機械。自立的に反復動作するナンセンスマシーンは、明和電機というよりジャン・ティンゲリーの彫刻を彷彿させる。
『LOVERS』プロジェクターの謎
この作品だけ写真撮影不可だったので、入口に掲げられていた線画のアクソメトリック図を紹介しよう。
『LOVERS』の主役は、中央部にそびえたつプロジェクターのタワーである。合計7台の装置が層状に重ねられ、それぞれがターンテーブルに乗せられ回転している。
せっかくプロジェクターを複数使っているのだから、別に本体ごと回さず映像の中身を動かせばいいように思う。それぞれ4方向の壁に向けて投影すれば、最低4台で済む。
あえてプロジェクターごと回転させたのは、個別に投影された映像が重なる「揺らぎ」を表現したかったのだろうか。機械仕掛けのターンテーブルは微妙に振動するので、壁の映像自体がランダムに揺れているように感じる。
あるいは映された人物がまったく別の装置=世界線に存在していて、決して触れ合うことがない断絶状態を表したかったのかもしれない。役者は撮影された映像で、かつ再生装置も異なるという二重構造で隔てられている。
上にある2台は、いまや懐かしいスライド映写機。一定間隔でフィルムが差し代わり、赤い縦線やテキストを投影している。よく見ると装置の排気口に衝立を配置して、まわりの鑑賞者に熱風が当たらないよう配慮されている。
こういう細かい工夫を見るたび、ダムタイプは装置の見た目にものすごくこだわっているように思う。ほかの3作品が暗室でなく薄明るい部屋でマシンを見せているのは、その自信の表れだろう。
『MEMORANDUM OR VOYAGE』3連作
タイトルに入っている3作品のダイジェスト映像をつなぎ合わせたインスタレーション。2014年に同じ美術館で発表された作品の再現展示にあたる。
各作品の音響は似たようなものなので、合体しても違和感がない。タイトルの語呂合わせも含めて、うまいまとめ方だと思う。映像の見どころだけ凝縮して、短時間で効率よく体験できるという回顧展向きの演出だ。
横長の3面スクリーンを使った『OR』と同じく、画面の左からスキャナーの読み取りヘッドのように映像が流れていく。
同時にこれは『VOYAGE』のディスプレイを垂直に起こしたかたちともいえる。2002年からICCと山口情報芸術センター(YCAM)で巡回展示された際は、モニターが床に並べられていた。
途中、モニターの大画面が細かい文字でびっしり埋め尽くされるシーンがある。やけに解像度が高いので不思議に思って近づくと、ドットが鮮明に見えている。背景の「塗り」と思われた部分も、実はミクロなテキストで構成されている。
スクリーンの裏側に回って確認すると、壁面は単なるスクリーンでなく自己発光する大型ビジョンだった。ベゼルのない小型の表示ユニットを無数に積み上げて、裏方で同期制御している。
調べたところ、これは特別協力のクレジットにあるソニーPCLの4K VIEWINGという製品。本作の横幅は4Kどころか8K以上ありそうだ。
何とも贅沢な仕様で、映像体験としては圧巻のインパクトを誇る。期間限定ではなく、どこかの美術館で常設展示してもらえないだろうか。
『pH』を再現したインスタレーション
過去作品『pH』の舞台装置として使われた、スキャナーヘッドのようなオブジェが小型化して再現されている。
明滅する蛍光灯を支えるトラスや、ベルト式架台の構造はミニマムで美しい。しかも当時の役者のように、鑑賞者も中に入って可動部に近寄れるようになっている(ただし装置をまたいではいけないルール)。
迫りくるスキャナーヘッドを警戒しながら、後ずさりしつつ床にプリントされたメッセージを読み取る。油断するとリアルにケガする危険な作品。アスレチック要素の加わった、観客参加型のインスタレーションともいえる。
課外授業なのか修学旅行なのか、たまたま中学生のグループがダムタイプ展に来ていた。会場の空気を読みつつ、「これで遊んでよいのだろうか」とリアクションに悩んでいる。
決して他人事ではなく、トラスをまたいで飛び越えたくなるのを我慢するのが大変。『pH』はダンサーやユーザーの動きを制約する、欲求不満パフォーマンスなのだ。
ダムタイプの映像の特徴
あらためて過去作品を振り返ってみると、ダムタイプの持ち味は大画面の映像とダンスを組み合わせたハイブリッドな表現にあると感じた。
それぞれ単独でも成立し得る内容だが、サウンドエフェクトも含めて高度に同期再生されることで、唯一無二のパフォーマンスになっている。表現ツールがアナログからデジタルに移行する過渡期の、「人力テクノ」のような実験精神や泥臭さも感じさせる。
画面の前に人が立っている
たとえば『OR』や『VOYAGE』で巨大スクリーンの前に立っている女性。
特に演技をするわけでもなく、棒立ちして観客席を向いているだけ。これもダムタイプが試行錯誤して確立した様式といえる。
映像を見ようとすると前の人が邪魔で、役者を観察しようとすると今度は投影される映像がノイズになる。映像と人物、どちらが図と地かわからなくなる両義的な表現といえる。
観客は映画館のように椅子にもたれて眺めていたいが、舞台の人に逆に観察されているような緊張感を味わうことになる。
『OR』の終盤でアルプス山脈を延々とドライブする映像が流れるシーンは、ダムタイプの真骨頂といえる。音と映像のシンクロ度合いも高く、VJ(ビデオ・ジョッキー)のようなパフォーマンスだ。
細かい部分を見ると映像が早回しされる際にブロックノイズが出ていて、これはカメラのプレビュー画面をキャプチャーした効果なのかもしれない。
DumbType最高傑作『OR』
『OR』を真似しようと車にカメラを載せてみても、なかなか同じクオリティーは達成できない。
映画監督のアンドレイ・タルコフスキーが『惑星ソラリス』で首都高を撮ったのと同じ。日本国内の見慣れた風景では、どうしても野暮ったさが抜けきれない。
パンフレットは持っていたが、あいにく公演に参加することはかなわなかった。『OR』はDVDの記録映像でしか見たことがないとはいえ、個人的にはダムタイプの中でいちばん好きな作品だ。
序盤の音響的な盛り上げ方からして尋常ではない。生の大音響で体験したら、本当に死んでしまうかもしれない。
映像以外にもパイプ椅子を振り回したり背中から飛び蹴りを食らわせたりと、プロレスのようなパフォーマンスが目を引く。ストロボを光らせて瞬間的なポーズを切り取る演出も見られる。
ダンサーにストロボ光を当てる
『OR』や『MEMORANDUM』で、ストロボ発光するライトに照らされてダンサーが躍るのもダムタイプの特徴。
照明を工夫して瞬間的にポーズを切り出したり、背面スクリーンの光でシルエットだけ浮かび上がらせたりしている。ストロボで照らすと人の動きがコマ送りのアニメーションのように見えて、生身の人間というより映像の中の人物という印象を受ける。
パフォーマーを漂白・抽象化して、映像の一部として扱うところがユニークだ。そのおかげで演劇でも映画でもコンサートでもない、独自のメディアアートとしか表現できないジャンルを切り開いている。
個人的に演劇を見るのは得意でないが、ダムタイプなら素直に受け入れられる。彼らの舞台に興味がなくても、「インスタレーションの作品が好き」という層も多いのではないだろうか。
主役は人か映像か機械か
『LOVERS』で壁面に投影される裸の人物たちも、押しつけがましくない風景みたいなもの。部屋の中央でおごそかに回転する装置類の存在感に比べると、壁の人たちは洞窟の影のようだ。
マンガ『進撃の巨人』に出てくるセリフを借りれば、
「ただ肉の塊が騒いだり動き回っているだけで、特に意味は無いらしい」
物々しい機械装置こそが展示の主役と言えないこともないが、それらは映像を再生する工業製品にすぎない。インスタレーションにも一応、役者は出てくるが、全体のごく一部でしかない。
既存の舞台芸術との差別化を図り、かつデジタル一辺倒のインタラクティブ・アートとも距離を置いている。間口は広いが予測ができず、美術館のキュレーターにとっては扱いにくいアーティストでないかと思う。
実写とCGの合成
ダムタイプの映像では、数字やメッセージのタイポグラフィーをベースに、ときおり実写が織り交ぜられる。
今回の『OR』実写部分には、静止画だけと思わせて映っている人物が一瞬動き、驚かされる場面があった。
これはかつてクリス・マイケル監督の『ラ・ジュテ』で使われた古典的なトリック。『MEMORANDUM』のパートに入ると外国の街並みをコラージュしたカラー写真が挟まれ、同じく『ラ・ジュテ』に出てくる崩壊前の世界を連想させる。
1995年に古橋悌二が亡くなった後の作品は、どれも臨死体験や記憶のフラッシュバックをテーマにしているようだ。『VOYAGE』でもワイヤフレームで構成された地図の上に、実写の風景が挟まれるのが印象的だった。
3次元のCGは出てこないので、最近のメディアアート作品に比べると地味に見えないこともない。ストイックな映像表現は、同じ都現美に常設されている宮島達男のLED作品を連想させる。
先日オーデマ・ピゲのパビリオンで体験した池田亮司の近作『data-verse』。こちらは純粋に映像の快楽性を追求した娯楽性の高い作品だった。
それに比べるとダムタイプのオリジナル映像は、当時の技術的制約もあると思うが2次元的でミニマリスティックだ。
不思議と気持ちよい電子音
ダムタイプのインスタレーションは、覚醒的なコンセプトを表現した刺激の強い演出と見せかけて、案外くつろげる空間でもある。ベンチに座って映像を見ていると、不思議なことに「癒し」のような効果まで感じられてくる。
石庭のように構成要素が少ないので、気分を落ち着かせたり想像力を働かせたりできる。「ピピピピ…ザーッ…」というソリッドな電子音やホワイトノイズも、抑制された表現で決して耳障りではない。
ダムタイプの舞台では、場面に合わせてシンセサイザーの和音やほっこりできる音楽も出てくる。特に『OR』のサントラは普通に家でも聴ける。自分も一時は作業BGMとしてよく流していた。
池田亮司ソロ作との比較
一方、池田亮司のソロ作品はさらに研ぎ澄まされたハードコアと呼べる内容だ。
精密に構築された音楽なので、ヘッドフォンやICCの無響室で集中して観賞するのがベスト。ダムタイプはまだしも、彼の作品を自宅のリビングで流すのは厳しい。
池田亮司の加入前、1990年の作品『pH』では、舞台音楽としてマニュエル・ゲッチングの『E2-E4』が使われていた。
80年代ユーロ・ロックの名盤として、広く知られた楽曲ではある。しかしテクノやミニマル、アンビエント・ミュージックにつながる過渡期の音源として、ダムタイプの雰囲気には合っていたように思う。
インスタレーションの整合性としては電子音縛りの方が似合っているが、1時間もある舞台だと観客が疲れてしまうのだろう。舞台音楽にメリハリをつけているのは、飽きさせないための工夫と考えられる。
ダムタイプはもう古いのか
都現美を訪れた休日の午前中は、雨模様にも関わらず多くの来館者でにぎわっていた。
しかしダムタイプ展の会場は、混雑するエントランスに比べて人が少ない。たいていの人は「ミナ ペルホネン」の企画展示に向かっているようだ。入口に特設された物販コーナーも大盛況だった。
ダムタイプの活動を知るコア層は、おそらくもう40歳以上。現代アートの分野では、すでに古典といえる存在だ。90年代は最先端のパフォーマンスだと思ったが、今の若い人から見れば、もう古臭くて人気がないのかもしれない。
しかしダムタイプに長年親しんできた人にとっては、いつもの電子音とストロボ映像が出てくるだけで鳥肌が立つこと請け合い。YouTubeにもアップされていない、過去作品をじっくり観賞できるビデオブースも設けられている。
アーカイブ・ブックをじっくり眺めるなら、人の少ない平日を狙って訪れるのがおすすめだ。