最後まで何も起こらないマンガ『恋は雨上がりのように』レビュー


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中年独身男性の間でじわじわ人気が出ているマンガ『恋は雨上がりのように』。最近実写映画化されて、JR車内に広告も出ていた。

知り合いからすすめられて読んでみたが、第一印象はまあまあという感じ。映画の方が、コンパクトにまとまっていて因果関係も結末のメッセージもはっきりしていた。

原作マンガはたいした進展もないのに、ずるずると10巻もある。さらに結末も謎のセリフや手紙の件があり、読後のモヤモヤ感がぬぐいきれない。しかし振り返ってみると、この「すっきりしない感」こそが『恋雨』の評価を高めた一因で、ほかの似たようなフィクションより際立っている特徴に見えてきた。

店長・近藤正己のリアクションやモノローグに、おおいに共感を覚えるところがあった。この歳で21世紀の女子高生心理などわかるはずもない。

(以下ネタバレ)

これは恋愛マンガなのか?

45歳のバツイチ男性と女子高生がカップルになるのは、別にいまどきめずらしい設定ではない。ファミレスという一般的なサービス業界内の恋愛物語としては、数年前に芥川賞受賞ではやった『コンビニ人間』を彷彿とさせる。地味な舞台設定と年の差恋愛、これをベースに横浜と武蔵小杉のローカル色も加えて、そこそこおもしろい恋愛マンガを描くこともできただろう。

筋書きによってはいかようにでも娯楽性を高められたと思う。1巻から橘あきらが店長に告白して、ぐいぐい攻めるスピード感はすごかった。このまま行けばどんな失楽園が待っているのかとドキドキしたが、2巻でデート、3巻に風邪の見舞いでハグした以降は、まったく進展がなくなってしまう。

そこからしばらくは、喜屋武はるかとの友情や、ライバル倉田みずきの登場により、あきらの陸上復帰を描いたスポーツマンガといった感じになってくる。高校生が部活でケガしてやさぐれるというのは、ごく平凡なストーリーだ。明らかに陸上に未練があり、まわりも復帰を後押ししているのに、なかなか煮え切らない橘あきらの心情描写が長く続いて、中だるみする印象を受けた。

語られないセリフと読まれなかった手紙

ラスト直前10巻になって、やっと恋愛マンガだったことを思い出したかのように店長との絡みが再開する。しかし肝心の別れ際のセリフ、そしてあきらから店長への手紙が開封されないまま、読者としては非常にもどかしい感じで唐突に終わる。

6か月後、あきらがリハビリを終え競技に復帰した場面で一見さわやかに締めくくられるが、もっと生々しい展開を期待していたおっさんとしては全然気分が晴れない。雨音にかき消されて描かれない店長があきらに伝える最後のセリフ…個人的には「もうお店に来なくていい、君はクビだよ」的な内容かと想像していたが、映画版の解釈を見るとそれで合っていたようだ。

負傷前の回想シーンや、最終話の復帰後シーンでは、あきらはよく笑う普通の女子高生として描かれている。それまでの「雨やどり」に過ぎない店長との恋愛ごっこは、彼女にとって例外的に抑鬱的な期間だったのだろう。

店長と対照的に、あきらは文学少女でもない陸上部の健康ガールである。そもそも接点のない二人が、たまたまケガをきっかけに抒情的な気分になって共感し、そして元に戻っただけともいえる。

最初は何も起こらない結末を見てもどかしい気がしたが、後から考えるとそのおかげで店長の「空白のセリフ」、あきらの「読まれなかった手紙」に深みが増した。10巻に2話挟まれる、近藤とあきらがともに高校生で出会っていたら…という平行世界の空想シーンに胸を締めつけられる。

二人が結ばれるハッピーエンドなら『めぞん一刻』、世間から蔑まれて心中するバッドエンドなら『高校教師』に似た作品として、それなりにうけただろう。あえてどちらの道もたどらず、ほろ苦い余韻で終えたところが、漫画賞を受賞するまで評価された理由だと思う。

「何も起こらない」のが特徴

『恋雨』とキャラクター設定が似ている『めぞん一刻』でも、一応のハッピーエンドとカタルシスは用意されていた。しかし本作は中盤からサザエさん的な日常が繰り返され、店長側のエピソードは柳沢きみおの『大市民』みたいになってくる。安アパートに住んで小説を書く45歳という設定、店長の顔つきも山形鐘一郎にそっくりだ。

もしあきらと店長の交際が進展して、近藤の元妻やあきらの父親と対峙するような場面を描けば、それはそれでおもしろい作品になっただろう。90年代にはやったドラマの『高校教師』みたいに心中まで行かないとしても、年の差恋愛の困難を克服していくストーリーを描けたはずだ。

しかし店長とあきらが客観的には失恋して終わるのは、純文学をテーマにするうえで必然だったのかもしれない。およそ『若きウェルテルの悩み』も『ロミオとジュリエット』も、恋愛が成就してしまっては歴史に残る文芸作品にならなかっただろう。

たいして恋愛が進展せず、主人公が死ぬような悲劇も出てこない。「なにも起こらない」ということこそが、21世紀の純文学なのかもしれない。まるでシュトルムの『みずうみ』のような甘酸っぱい読後感を残す。

倒錯ロリコンものでもない

橘あきらが女子高生という設定を見て、最初は倒錯的なロリコンマンガかと思った。冒頭はむしろ橘あきらのサイコな言動が際立ち、母子家庭のファザコンマンガとも読める。『ロリータ』や『痴人の愛』のように、タブーな恋愛こそ純文学が得意とするジャンル。九条ちひろが言うように、

文学ってのは毒なんだ…
こんな大衆に媚びたクソみてぇなモンじゃなく…

『恋雨』も花沢健吾の『ルサンチマン』のように、読んでいることを人に言えない恥ずかしいマンガだった。というのは店長がやたらセクハラを気にするように、考え過ぎだろうか。

店長・近藤正己が早稲田大学の文芸サークル出身という背景からすれば、ナボコフや谷崎潤一郎の代表作も当然読んでいたと思われる。橘あきらから告白されるより前に、店長の頭の中はいろいろな妄想でいっぱいだったことだろう。

しかし、いざ告白されてみると「これは何かの罠?担がれているか、ドッキリではないか?」と反応するところに妙な中年男性のリアリティーがある。年齢上の男性側があくまで子持ちの常識人、どれだけおいしい場面でも決して一線を越えないということが、今までの文学作品と違うユニークな点である。

10巻目のエピソードが省略された映画版では、さらにその印象が強まった。そのおかげで、バイト高校生を正しく指導する「できる店長」として昇進話にもつながったのだろう。

なぜか中性的な名前が多い

登場人物の名前が中性的なのはなぜだろう。「あきら」はどちらかといえば男性の名前だし、橘玲(あきら)という小説家・エッセイストも存在する。同じく17歳の男の子、町田翠(すい/あきら)が出てきて。九条ちひろの方に店長と同じような影響を与える。

「まさみ」や「ちひろ」という名前は、逆に女性をイメージさせる。主要キャラにあえてユニセックスな名前をつけたのは、男女間の恋愛以外に、友情とかプラトニックな人間関係を描きたかったという作者の意図だろうか。

橘あきらが華奢すぎる

橘あきらが陸上部のスプリンターだとすれば、もっとムキムキガチガチな体形をしている方が自然だ。『進撃の巨人』のミカサ・アッカーマンのように、体重68kgとかあっても不自然ではない。あきらがよく見せる、机の上に突っ伏した状態を浮かせて首をひねるしぐさは、相当背筋を鍛えていないと維持できない。

女子高生のスカートの丈が短かったり、ときどきパンチラシーンがあるのはマンガとしてのお約束。いちいち「あざとい」と気になってしょうがないのは、おっさんだからだろうか。