過労死する前に読みたい『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

会社勤めをしていた時代に、なんで毎朝起きて通勤しなければいけないのかと、不思議に思ったことがある。

通勤ラッシュと『夜と霧』

目の前で電車のドアが開き、すでに満員ではちきれそうな人の壁の中に突入する。ガラスにむぎゅっと顔を押し付けながら、次の駅ではさらに人が突進してくる。理不尽な通勤ラッシュも、最初は東京名物かと思って楽しんでいたが、毎朝毎晩繰り返される異様な祭りに飽き飽きしてしまった。あげくは毎朝、『夜の霧』で描かれるアウシュビッツに向かう列車のように思われてきた。

結局、通勤するより会社に寝泊まりした方が楽だと思って職場で暮らしていた。明け方オフィスの窓から見える満員電車は、屠殺場に送られる家畜の群れのように見えた。かつて自分もその一員だったわけだが、大勢の人が文句も言わず律儀に電車に詰め込まれている風景には、何か宗教行事のような趣があると感じていた。

サラリーマンとして会社に勤めることには、「お金を稼ぐために働く」というもっともらしい理由以上の、謎のモチベーションがある気がする。

無職だと後ろめたいのはなぜか?

退職して平日の日中に公園やショッピングセンターをうろついていると、不審者として通報されるとまではいかないが、どことなく周りの視線が冷たく感じる。こんな時間に油を売っているのは、高齢者か障がい者でなければ、何か訳アリな人だろう。

そういう風に思われていると想像するのは、むしろ自分の中に後ろめたい気持ちがあるからだ。平日昼間に寝間着のまま、ヒゲも剃らずに株主優待でランチをいただいていると、がら空きでうれしいと思う一方、まじめに働いている人たちに申し訳ないという気持ちが湧いてくる。

仕事がないという恥ずかしさが、経済的な理由よりも実は世間体とか倫理観みたいなものに由来するのではないかと思い、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を手に取ってみた。

宗教改革が育んだ資本主義のエートス

岩波文庫の経済・社会カテゴリーにある本書のタイトルを見て、何となく「まじめなプロテスタントが現代の資本主義の礎を作ったのだろう」くらいに考えていた。大枠として外れではなかったが、一言でいえば、「西洋における宗教改革以降の世俗的禁欲のエートスが、資本主義が勃興するための社会心理的な土壌を用意した」という内容だ。

エートス(Ethos、Ethik)という用語は直訳が難しそうだが、宗教的倫理とでもいう意味だろうか。世間一般に広く浸透した道徳・規範というニュアンスで、訳者は「社会の倫理的雰囲気、客観的な社会心理」と解説している。武士道とかベンチャー・スピリットとかいうような高邁な精神よりも、そういう考え方があまりに普通すぎて疑う余地もない「常識」になってしまったような状態だろう。

中世で営利が罪悪視された反動

因果関係として「宗教改革が資本主義をつくった」とまとめるのはやや大雑把で、「宗教改革の結果、期せずして資本主義の前提条件が整った」という方が正しい。だから本書のタイトルはあくまで資本主義の「精神」なのである。

西洋のキリスト教に比べて商売に寛容だった中国やアジア圏、ユダヤ人からは決して資本主義が生まれなかった、というのがその論拠である。中世のヨーロッパで、利息を取ることや営利を目的とすることが罪悪視されていた反動で、労働や利潤追求が公に認められると急激に資本形成が促進された。さらに舞台がイギリスからアメリカに移ると、宗教的な禁欲という色合いが薄れ、現代にいたる資本主義の萌芽につながった、と解読できる。

単なる節約を上回る禁欲的倫理

単なる節約とか勤労を賛美する風潮なら、プロテスタントに限らず世界中どこにでも見られる倫理観だ。日本でも、二宮尊徳とか江戸時代以降の勤勉革命のおかげで「時は金なり」という考え方は何の違和感もなく受け入れられている。「働かざる者、食うべからず(He who does not work, neither shall he eat.)」という格言は、新約聖書にも書かれている。

200年以上前に書かれたベンジャミン・フランクリンの自伝を読んで共感できるのは、そういう考え方が日本ではことさら言い立てるでもなく常識と考えられているからだろう。

しかし、「せっせと働いて貯金する」くらいの考え方だけからは、現在の資本主義やグローバル企業は生まれてこなかった。それには、「生活の必要性以上に稼ぐ。労働によって金銭を得ることより、むしろ利潤追求それこそが自己目的」と考えるくらいの偏執狂的な執拗さ、いわば宗教的な禁欲が必要であったのだ。

ルターが広めた天職という考え方

ヴェーバーはルターの「天職(Beruf、Calling)」と考え方で、西洋の職業観の変化を説明している。世俗の仕事や職業を神の召命ととらえることによって、対価を得ることより働くこと自体が神の栄光をたたえることになる。

労働者にとっての労働、企業家にとっての営利が、それぞれ天職といえるほど崇高な倫理観にまで高められる。それによって、従来のキリスト教ではタブーだった、利潤追求や搾取が正当化されたという筋書きだ。

“Call of Duty”と言うとき、おそらく西洋人には「みんなでゲームやろうぜ!」というより、もっと荘厳な宗教的ニュアンスが含まれているのだろう。『ダンケルク』の予告編を見たら、久々に名作COD2をやりたくなってきた。

働くことの合理的な非合理性

功利主義を突き詰めれば、個人の利益や幸福に対立するようになる。物質的要求を満たした後にも身を削って稼ぎ続けるというのは非合理的な気もするが、労働が宗教的な自己目的なら、その教義のなかでは「合理的」といえる。

なぜ人が過労死するまで働くのか、ブラック企業と叩かれても会社が存続するのか…非合理性がまかり通るのは、そこにエートスがあるからだ。賃金のインセンティブ以上に強力な、社会的倫理が存在する。

フランクリンの著作はまだ過渡的状態で、ピューリタン的な宗教観をにじませている。アイン・ランドの小説に見られる、労働を神聖視するような考え方も、プロテスタントの倫理観から派生しているのだろう。その後アメリカから世界に本格的に広まっていったグローバルな企業文化は、もはや宗教ではなく営利を求めるスポーツと化してしまった。

あえて資本主義を疑ってみる

ファシズムとか共産主義というカウンターパートがあった時代は、まだ資本主義を相対化して眺めることもできたのかもしれない。今ではそれが普通になりすぎて、疑うこと自体があり得なくなってしまった。

憲法27条の「勤労の義務」に真っ向から食ってかかる論客など、作家で大学教授の森博嗣氏くらいのものだろう。少し古い本だが、今でも立川のオリオン書房に平積みされているだけあって、なかなか痛快である。

後ろめたさの原因は宗教的倫理観?

ヴェーバーの本を読んで、現代の日本で「働く理由」なんてあえて話題にするまでもなく、むしろ「働かない」という選択肢が想像できない思考のルーツについて考えてみた。元はキリスト教の禁欲的倫理観だったものから、歴史の過程で宗教色が薄れて、「朝起きて、飯を食って、仕事に行く」という行動様式だけが残ったのかもしれない。

平日、仕事をしないで街中をうろついているときに感じる後ろめたさというのも、会社員時代に慣れ親しんだエートスの残滓があるからだろう。…とわかったところで、堂々とニートやスネップを気取ってモールを練り歩けるほど厚顔無恥でもない。こういう発想自体がそもそも資本主義に洗脳されているようで、不気味だ。心理的な抑圧について調べてみようと思い、エーリッヒ・フロムの本も読んでみた。

多少の罪悪感は、日中遊んで暮らせることの税金みたいなものだと思って甘受するしかないだろう。もっとも、さぼってたまった仕事のツケは週末に払うことになるのだが。