マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』レビューの続き。この本を読んで、功利主義とリバタリアニズムの違いがようやく理解できた。
お金や効用といった一元的な共通通貨で物事を評価する傾向は、功利主義に分類されるらしい。また「どんな働き方や生き方を選ぶかは本人の自由」というのは、自由至上主義というリバタリアン的な考え方のようだ。
それに比べて本書後半のカントとロールズ、マイケル・サンデル自身の主張はピンとこなかった。特にジョン・ロールズの格差原理には、単に「流行っている思想が嫌い」という以上に生理的な嫌悪感すら覚える。何度か読み返して、ようやくこの違和感の正体がつかめた。
サンデルの共同体主義をロールズの批判としてとらえ直すと、意外といいところが見えてくる。特に著者が紹介しているアリストテレスの思想を参照するとわかりやすい。
敵の敵は味方。アンチ・ロールズという文脈において、共同体主義は功利主義者にとって連帯感のようなものを感じられる。
(2020年1月27日更新)
共同体主義(コミュニタリアニズム)とは
本書でサンデルが取り上げている政治哲学思想は主に3つある。
- 功利主義(ベンサム、ミル)…幸福の最大化が正義
- リバタリアン・平等主義(カント、ロールズ)…個人の自由と権利を尊重するのが正義
- 共同体主義(アリストテレス、サンデル)…連帯と忠誠の責務にもとづく正義
平等主義(2)は功利主義(1)の否定である。共同体主義(3)はアリストテレスが提唱した目的論的道徳観を参照することによって、両者の対立を発展的に解決しようとしている。
サンデルは「功利主義 vs 平等主義」の抽象的哲学議論で見落とされていた所与の条件(愛国心や宗教)が、実は道徳や政治の議論と切り離せないことを指摘する。
その上で異なる価値観を相互に尊重しながら、前向きに議論を続けようという姿勢を提案する。
「中立的な正義」の否定
正直なところ著者の掲げるコミュニタリアニズムには、ベンサムの効用論やカントの純粋実践理性のようにスカッとした論理的明快さがない。連帯や責務の議論は重苦しいし、相互的尊敬という理念は生ぬるく感じる。
しかしその「中途半端な煮え切らなさ」こそが共同体主義の持ち味。歴史的に議論されてきた「中立的な正義」という理念自体を否定しているのだ。
「キング牧師の公民権運動やベトナム戦争への反対運動には、道徳的・宗教的言説が援用された」
サンデルは今まであまり疑われなかった政教分離という原則に、あえて踏み込もうとしている。
マイケル・サンデル、4つの試論
コミュニタリアニズムの思想を具体的な政策に結びつける方法は、著者自身が「まだ満足のいく答えが出せない」と終章で告白している。
その代り試論として提案されているのは以下の4つのアイデア。
- 強制的な社会奉仕プログラム
- 社会的慣行(兵役、出産など)への市場原理導入の制限
- 税金を投じた公共サービスの再建
- 政治に道徳理念を持ち込むのをいとわないこと
いずれも「個人の自由を国家が制限する」というニュアンスがあり、米国のリベラルとリバタリアンには真っ向から否定されそうだ。
連帯・共同責任という観点から「歴史的不正への集団的謝罪と補償」も是とされているので、日本でも物議をかもすのは間違いない。
国家間の賠償問題は法的根拠のないビジネス交渉のようなものだから、強気で臨むのがセオリーだ。最初に過度な要求をふっかけて心理的にアンカリングするのは常套手段。
もしサンデルの言う共同責任を真に受けて謝罪の姿勢を示したら、某国にゆすりたかりでケツの穴の毛までむしり取られてしまうことだろう。
各論はどちらかというと平等主義的な傾向が目につく。しかし3つ目の「税金を投じた公共サービスの再建」は最大多数の幸福に寄与する可能性もある。
功利主義者としては「所得の再分配ではなく公共投資に使われるなら増税もありでは」と考えてみることができる。このあたりにサンデルが期待する「議論による歩み寄り」の可能性を感じる。
人が功利主義を好ましいと思う理由
本書を読んで気づいたのは、功利主義やリバタリアニズムという主義主張も決して中立的な立場から選ばれたわけではないということだ。
いわゆる功利主義も、18~19世紀のイギリスで流行っていたローカルな自由主義思想に根差している。
ベンサムの『道徳および立法の諸原理序説』で展開される晦渋な功利計算も、あらためて読むと曖昧な仮定だらけで論理的にはずいぶん怪しい。決して純粋で公平で抽象的な数学的操作とはみなせない。
その意味ではたとえ拝金主義者といえども、アラスデア・マッキンタイアの言う「目的論的な物語」から道徳的特性を後天的に与えられている。
『自由論』を書いたジョン・スチュアート・ミルの父親、ジェームズ・ミルはベンサムの信奉者で、J・S・ミルは子どもの頃から功利主義の英才教育を受けさせられていた。誰しも育った家庭環境や教育・交友関係から思想的な影響を受けている。
後天的・道徳的な特性に由来する
功利主義者は「最大多数の最大幸福」という価値観を「平等の原初状態」から選択したわけでない。
個人主義が規範である欧米社会で育った人には、単にそれが好ましく思われるだけ。あるいは集団意識や同調圧力の強い日本で、マーケティング上の差別化を狙って選ばれやすいポジションともいえる。
定言命法で無条件に善とされる原則が、カントの場合は「理性」、アリストテレスなら「善良な市民生活」、功利主義者は「幸福の最大化」に分類される。
ジョン・ロールズの「万人に対する公正さ」を追求する思想というのも、何かしら後天的に獲得された道徳的特性に由来するのだろう。そもそも対象が功利主義でも格差原理であっても、「ひとつの思想にこだわる」ということ自体が何か病的で強迫観念のように感じられる。
おそらく人は自然状態ではベンサムにもロールズにもならない。現実には完全な功利主義者も平等主義者も存在しえない。
誰しも少なからず自身の所属する共同体からポピュリズムの影響を受けていて、これは正義論の聴衆であるハーバードのエリート学生とても例外ではない。
政治的無関心こそが悪
各自の生まれ育ちが違う以上、思想や信条が異なること自体は自然な状態。そしてサンデル教授が言うように保守派もリベラルもリバタリアンも、それぞれの主張をぶつけて議論する状況自体がポジティブとみなせる。
たいていは声が大きい派閥が勝利する。しかしマイノリティーの立場を尊重して知恵を絞れば、Win-Winでクリエイティブな解決法が見つかるかもしれない。
著者が提案するのは「公共の言説の貧困化」を招く政治的無関心よりは、時間やコストがかかっても論争する方がまだましという考え方。これはミルが『自由論』で議論した「無誤謬性の仮定」を疑う公平な態度といえる。
「コミュニティーの健全性を長期的に維持する」という観点からすれば、共同体主義の社会福祉に寄与するメリットは大きい。この点は功利主義者も認めざるを得ない。
サンデルのルーツはギリシャ哲学
ベンサムが体系化した功利主義は、プラトンの著作の中でもごく初期の対話編『プロタゴラス』にそのルーツを求めることができる。
「善悪は快苦の総量として単純計算できる」という割り切ったアイデアは、ソクラテスとソフィストたちによってギリシャ時代から議論されていたテーマだ。
これと同様にサンデルの共同体主義も、実質的にはアリストテレスの目的論を発展させたもの。奴隷制の擁護という当時の「正義」を修正して、現代社会に当てはめてみたバージョンだ。
「都市国家の目的と目標は善良な生活であり、社会生活の制度はそのための手段である」
功利主義の大前提として「善いものは善い」とトートロジーでしか表せないような公理系を必要とする。
それが「所属するコミュニティーの維持発展」であることは、どの陣営にとっても明らかといえる。目的・目標・価値観の差を認めたうえで、お互いに歩み寄れる制度設計を議論しようというのがコミュニタリアニズムの骨子だ。
ハーバード白熱教室とはソクラテスの問答法
結局哲学の歴史とは、「汝自身を知れ」と引きこもって個人主義になり、やがて「人は社会的動物」と気づいてコミュニティーに回帰する運動を繰り返しているだけではないか。
無理やり一般化するとハーバード白熱教室も文学や映画・演劇と同じ。プラトン、アリストテレスの時代から伝わる倫理的ジレンマ(古典的ストーリー)を再現しているように思われる。
サンデル教授の講義の進め方は、ソクラテスの問答法そのものだ。著作というより対話で進められるスタイルに意味がある。
共同体主義は永久に完成しないメタ哲学
終身雇用や家族制度を費用便益分析して、フリーランスやセミリタイアという生き方を選んだとしても、孤立したSNEPの幸福はどこかで頭打ちになる。
徹底的なリバタリアンであっても、リア充で善良な市民にはかなわない。場合によっては功利主義的に善や幸福を追求しない方が、長い目で見ればかえって共同体からその恩恵を受けられるという逆説も存在する。
サンデルの共同体主義は、近視眼的になりがちな功利主義に、社会関係資本(ソーシャルキャピタル)というファジーな価値観を持ち込む取り組みともいえる。それは「お金よりも信用が大事」というSNS文化、シェアリングエコノミーが勃興しつつある時宜にもかなっている。
自我や自己意識というのは実は共同体の価値観、社会規範という構造やパラダイムに依存しているバーチャルな概念でしかない。それを出発点として人々が社会的に平和に共存できる道を探ろうというのが、サンデル流のコミュニタリアニズムなのだと感じた。
著者が持論を未完成と認めるのと同じく、「正義」本の個人的な感想も年々変化していくのがおもしろい。読み返すたびに「頭が柔らかくなる」と感じるのは、まさにマイケル・サンデルが意図したこの本の効用ではないかと思う。